先日の早朝、隣家の子供の泣き声が聞こえてきた。重い気分はいつも通りだった。しかし、何故か普段よりも一層「まずい!」と感じて、なんとなく“何か”を縮めるイメージをした。すると、その“何か”が自分の身体のラインぴったりにまで縮まり、気が楽になったので二度寝した。
それ以来、この「自他境界感覚」「バウンダリー」あるいは「仮想皮膚」ともいうべきものの範囲を、自分でコントロールできるようになった。
「自分の身体」や「〇〇さんの身体」「このソファ」など具体的な範囲を意識すると、碇のような感じになって境界を保持しやすい。逆に「半径〇メートル」などに境界を保つのは、一時的になら無理ではないものの疲れる。
私の「自他境界」はこれまで、半径5〜10mくらいの範囲にぼんやりと広がっていたようだ。それを今は意図的に縮めたり広げたりすることができる。といっても、広げすぎると精神的にかなり苦しいし、縮めすぎる(自分の内側にする)と離人症のような感覚になる。自分の身体のラインぴったりが、最も快適な位置である。
自他境界が自分の実際の身体とピッタリになるよう意識すると、あまりの狭さに驚く。自分の範囲、真に気を遣うべき範囲はこんなに小さいのかと、ある種の安心を覚える。これだけのエリアにしか本当の責任はないのだとわかり、架空の重責から解放された感がある。
同時に、周囲の環境や人に対する「肯定的に思わなければ」という無意識の構えがなくなり、楽になった。
これまでは、公共の場で騒がしい人間や、好ましくない行動を取る者に対して、なんとなくぼんやりと「彼らを肯定できる言い訳」を考えていた。
「育った環境が悪ければ、ああいう風にもなってしまうだろう。同情する」「こういう人物の強みは、これを裏返したああいうところだな」「子育てとはとても大変だろう」などなど。
自他境界の内側にあるものは、自分を守るために、肯定しないわけにはいかなくなるようだ。スーパーや道での「すれ違い」でかなり気を遣っていたのも、「“私の範囲”でのすれ違いがうまくいくかは、私の責任」と感じていたのだろう。
バウンダリーやHSPについての説明で「他者の感情などが自分に流れ込む」とよく言われる。しかし私の感覚をより厳密に言うと「他者が他者として在ることの責任の所在が、“仮想の自分”の内側に含まれている」である。外から他者が流れ込むというよりは、コントロール可能なはずの自分の内側で、コントロール不能な他者が暴れ始めてパニックになり、無理やり安心するために“他者肯定の言い訳”を考えるような感じだ。それをやっても全く安心はしないのだが、そのようにせずには居られないのだ。
以前の私は「真面目に考えて知識が増えれば、みんな私と同じ考えに至るはず」と思っていた。そのある種の純粋さには、自他境界の広さが関係していたと思う。
意識しないとすぐに、いつも通りの半径5〜10メートルに広がってしまう。この長さは、実家の直径と重なる。親の機嫌と自分の行動が関連づけられて、常に気を遣っていた範囲ということだ。実家の端にある私の部屋から、反対の端にあるリビングあるいはベランダの距離なのである。
自他境界を自分で縮めたり広げたりできると気付いてすぐ、「気」とも関係があるだろうと感じた。「気」を出し入れしたり動かす感覚とかなり似ているのだ。直近の自分の気は黄色だが、自他境界は山吹色のようだ。見えるわけではないが色を感じる。
気の出方も変化する。自分の身体ピッタリに収めると、普段の「気が外側へ外側へと溢れ出す感じ」がなくなる。やや漏れている感はあるが、いつもよりセーブされて、自分の内部で気が循環したり皮膚上に留まったりしている。自他境界が広いと、その内側をコントロールする必要を感じるため、気を外側に出して影響力を与えようとするのではないか。
自分の身体にピッタリ合わせた状態で、集中してものを見ると、普段ぼんやり「見えているけど見ていないもの」が、いつもより明瞭に見えた。自分の外側にまで意識がぼんやりと広がっていたのを、自分の範囲に戻すことで、集中力の上限が上がったような気がする。
さらに、ツイートやブログ記事を投稿する際の緊張が緩和される。これまでは「なんか言われたらやだな」「間違ってたらやだな」と思っていたが、それらの「他者の判断」が自分の外側に出ることで、重要性が軽くなったのだろう。自他境界のコントロール権を得たことで、私を止めるものはますます無くなってきた。
この話を真面目にすれば、ほとんどの人は真剣に聞き入れず、精神科を勧められるのが関の山だろう。しかし私の社会生活には支障がないどころか、この感覚を得たことによって、より一層生きやすくなる。だからこの現象について、何らかの診断が下りることはないのであった。