分母が大切(一流、AI、人材)

(資本主義を肯定するのであれば、)クリエイターにしても経営者にしても何にしても、「分母が大きい」ことが大切である。

中途半端な奴はいらない?

時々「中途半端はだめだ。一流だけが善」というような意見を聞く。金銭や承認を求めてやってるレベルとは二流であり、もっと広い視野で世界をよくしていく気概がある一流になるべきだという論調である。

さも自分がその「視野が広くて世界貢献を本気で考えており、マズローの欲求段階では6段階目にいる、一流の人格者」であるかのように言っているが、おかしな話である。

インボイスが始まる時にも「インボイスごときで潰れるクリエイターは、やめた方が良い」などという発言がTwitterで燃えていた。

これは感情論ではなく普通に考えて誰も得しない話であって、そんなことを大上段から言ってしまうのは単純に論理的思考力が欠けているのである。

一流ができるには大量の非一流が必要

その「一流」とやらの定義を一旦正しいとして、一流を育てるためには、仲間やライバル・学習の見本・雑務に忙殺されない状況・最低限の住環境・健康な肉体など、一流を育てるための環境が必要である。

その環境を築くのは誰か?

それは実働よりも教えることが得意だった恩師であり、ギリギリ一流になれない仲間であり、最もテクニカルではないが言語化が上手いYoutuberであり、平社員の両親であり、駅のトイレを掃除する凡人であり、バカだと叩かれている政治家であり、地方の農家や畜産業を継いだ二代目である。

そしてその仲間や政治家や農家の活動は、また同様にトラック運転手や漁師や自動車整備工や空港スタッフなどによって支えられている。

金を稼ぎやすい職業と稼ぎにくい職業があるように、世界貢献になりやすい職業となりにくい職業がある。しかし、金を稼ぎにくい職や、世界貢献になりにくい職も、(一流をはじめとする)みなが日常生活をするには必要なのである。

一流ができるには大量の五流が必要

大量の人間の中から、ピンポイントで手塚治虫や宮崎駿を見つけて、「さあ君一人で日本のクリエイティブを担ってくれ」ということは、発見段階でも実現段階でも不可能である。

世の中の殆どの人間は「大衆」であり「大衆的」である(私のいう「大衆」には、ほとんどのエリートや経営者も含まれている)。大衆的な者は、結果が出る前の手塚治虫や宮崎駿を見つける審美眼など持っていないから、彼らを発見できない。そして大衆的でないわずかな者は、ピンポイントで一流を見つければ効率的などという大衆的な結論には至らない。

仲間やライバルがいない状況で世界のために頑張れというのも無理な話だ。手塚治虫にギリギリなれなかった者がおり、そのギリギリにもう少しで届きそうな者がおり、さらにその下にもと、「可能性を持つクリエイター」たちはピラミッドのように積み重なり、互いに切磋琢磨や協働をして上を目指している。

だから、手塚治虫や宮崎駿のような傑出したクリエイターを生み出したいなら、構造上、大量の「へたっぴ」「アマチュア」が必要なのである。一流よりも二流の数が多いし、それよりも三流が多い。

研究者や経営者についても同様で、ノーベル賞やグローバル企業が欲しいなら、それに応じた量の「だめだめ研究者」や「使えない経営者」が必要なのだ。

身もふたもないことを言えば、「一流」などといった表現は相対評価なのだから、仮に全員のレベルが横並びになったとしても、99.9と100.0と100.1の間で線引きが発生するだろう。一流とは、レベルではなく人数の割合を意味する。分母が大きければ一流の人数は増える。

誰でも最初はへたっぴ

ちょっと話が逸れるが、AIが新卒の仕事を奪い始めているらしい。簡単な仕事はAIにやらせた方が人件費が浮くという理屈だろう。

ただ、今の中堅やベテランがいるのは、昔に新人を育てたからである。私も、社会人なりたてホヤホヤの頃は、今の私とは全く違う状態であった。AIによって新人の就職が減ることは、5年後、10年後、20年後の中堅やベテランが減る事を意味する。これも分母の話である。

肝心なのは、新人〜中堅〜ベテランの差異として、私の場合デザイン力も上がっているのだが、「それ以外」の能力向上のほうが目覚ましいことだ。アドリブで話す能力とか、お客さんの会社に入っていってオドオドしない度胸とか、後輩に対する話し方とか、時と場合によって求められる丁寧レベルが変わる肌感とか、他にも色々な「社会人感」がある。これは実際に労働をしなければ身に付き難い。

スキルがAIに代替されるとしても、このような「社会人感」は若手のうちから仕込む必要がある。新卒を採らないでおいて、数十年後に「最近のおっさんは社会性がない」などと言うのは身勝手なのだ。

とはいえ「だから企業はひたすら新卒を雇いなさい」で終わらせることはできない。特にAIの活用がしやすい業界では、短期的には新卒を雇うことが競争力を落としてしまう事態にもつながる。世のため人のためと言って競争に負けても、評価してくれる人はいない。しかし皮肉なことに、競争のために企業が人を採らない場合、人が育たなくなるので、国の競争力は下がる。

AIがあろうが、ロボットがあろうが、一番最初に「何が問題で、どうしたら良いか」を考えるのは人間だ。人間社会の評価をするのは、人間以外にあり得ない。AIに「未来永劫、人間にとっていい感じにしといて」と言って放置は非現実的だ。試行回数が多いのだから、どこかしらで間違いはするだろう。普遍的な正解がなくて対策や対処のしようがない問題も現実には多い。誰にも責任がなければ、誰がAIを改善するのだろうか?それはもはや新たな天災である。

一流になるよう煽ることは自らの首を絞める

GDP的な最適解とは、金にならない仕事はすべて国外に任せ、自国は投資・IT・産油に全振りすることである。これは明らかにおかしいし、仮にこれで最大瞬間風速を出せたとしても、せいぜい15年くらいしか続かないだろう。

ここ10年くらいだろうか、一言でいうと「同じ会社で一生過ごす時代は終わったので、職場のストレスを我慢せず、個人で稼ぐのが賢い」こういった思想がかなり増えたように…
ryoma169.com

「一流になるべき」とか「個人で稼ぐのが賢い」「年収は感謝の量だから年収が高いのは偉い」などと発信している者どもは、情報商材の売り逃げ狙いが9割だとは思うが、もし真面目に発信しているとしたら、彼らは己の首をグイグイ絞めている。

そもそもそのような生き方ができる職業とできない職業があり、できない職業も生活には必要で、あなたも使っているでしょ?なくなっていいんですか?ということだ。

大抵の「〇〇になるべき」といった論は、普遍的ではない=真理ではない。普遍的かどうかは、もし実際に全人類がそれを実行したらどうなるかを考えればわかる。全員が一流とか、全員がフリーランスとか、感謝の感覚が計測されて請求額になるのは、資本主義の構造上ありえないから、これらは真理ではない。真理になりうるのは、全人類が今すぐ実行しても破綻しないであろう「隣人愛」とか「諸行無常の会得」などである。

彼らのような“一流の人格者”が、なぜ誰も得しないことを言うのか、不思議でならない。黙っていれば自分らだけが儲かり続ける構造が維持できるのだから、それで良いではないか。それとも彼らは、社会の発展や治安の安定よりも、承認が重要なのだろうか。