主張は表題の通り。家庭や職場などの「場」の外にいる他者には、言葉だけでは判断できないのだ。
私は表題の文言「育て方を間違えた!」を日常的に言われながら育った。私が小学生くらいの頃、母親は毎週のようにこれを言っていたと思う。20歳の頃には家出をしかけたことがあり、その時には父親にも殆どこれと同じ言葉を言われた。
それで、問題なのは頻度というよりも「普通に考えたら親の責任になることが、子への攻撃として使われていること」である。普通に読めば、育て方を間違えるのは大人以外にありえない。幼児や児童に育て方の責任が帰するはずはないのだから、間違えたのは両親である。よって、言葉だけ見れば「育て方を間違えてしまって、すいません」ということで、子供を責める言葉には普通ならないはずなのである。
はずなのだが、何故かその言葉が「明らかな攻撃の意図」を纏って親から発され、それを聞いた子は「やばい、何かして機嫌を取らなければ」「謝らなければ」となる。そんな変な家庭が(どれくらいの割合かは不明だが)存在する。
本来であれば親が謝る言葉の意味がひっくり返っているのだから、この家庭空間には歪みがある。この家の病理とは「親は常に正しく、子は親の期待に応えるべき」という内部規範が存在することだ。
自分の家以外の日常や、自分の保護者以外の育て方を体験することは殆どない。私にとっては変な言葉で攻撃され続ける日常が「普通」だったのだが、ようやく、ようやく「ウチのおかしさ」に客観的に気付いた。これまでは毒親的な要素もあるかな?位の感覚だったが、客観的に見て明らかにおかしい点に気付いた。この衝撃は想像よりも大きく、気付いた時も、これを書いている今も、吐き気がしている。なぜ吐き気になるのかは、よく分からないが、心が感じているよりも悲しかったり(「心が感じているよりも悲しい」とは、一体どういうことだか私にも不明だ)ショックを受けているのだろう。
毒親判定は主観的な感覚が多く、自分の育った家庭を客観的に見るのは大変難しいが、「言葉の通常の意味と、意図や要求にズレがないか」は、客観的・論理的に確かめやすい希少なチェックポイントだと思われる。ガスライティングやダブルバインドとも共通点がある。これはアダルトチルドレンだけでなくパワハラ・モラハラなどの判定にも使えるだろう。
