エフィリズムについての所感

エフィリズム=Efilism …「Life」を逆さまにして「Efil」にism。生命の否定。生命システムそのものに、生命自身が必ず苦痛を感じてしまう仕組み(欠陥)があるとみなし、苦しみをなくすためには全生物がいなくなるのが良いとする立場。

【関連キーワード】反出生主義、アンチナタリズム、ヴィーガン

私の立場

私はエフィリズム的な物の見方を間違いなく持っている。とはいえ、あらゆる生物の出生を制限しようとする「反出生主義者」「エフィリスト(?)」なのかというと、それは違う。

結論を先に書くと「生命システムは確かに欠陥品だが、我々は既にそれに完全に同一化しており、抗うことはできないので、自然に生命が滅びるのを待つほかない。できないことを考えても仕方がない」だ。補足として「自分が実子をもうけることは考えていないが、他人が産むことが悪いとは思わない」でもある。

エフィリズムの考え方(感じ方?)はまったくその通りというか、自然とたどり着く帰結そのものである。生まれてくると様々な苦痛を味わうのはもちろんだが、競争を前提にしたシステムでありながら共感性を持つ種がいること、他の生命を食わなければ死んでしまうこと、死は避けるべきことでありながら必ず死ぬこと、死んだらどうなるか誰も体験できないなど、「勝ち組・負け組」に全く関係なく、生命というシステム自体が邪悪な牢獄のようであることは疑いようもない。

私は昔から「本当の自分は女性ではないのに、身体の形が女性である」と感じてきたため、「肉体は魂の牢獄だ」的な感覚は他の人よりも強いと思うが、それにしても生命というシステムはなんと残酷なのだろうか。創世の神がいるとすればサディストだし、仏も遠くから眺めているだけで今苦しんでいる生命を助けないのかという感じである。

ペンギンのドキュメンタリー

私がこのようなエフィリズム的感覚をより強く持つようになったキッカケは、なんとなく見たペンギンのドキュメンタリー番組である。南極の厳しい環境で子育てを頑張るコウテイペンギンが解説されていた。

そこでは、極寒に耐えきれず卵を抱えたまま絶命してしまうオスペンギンや、崖から母子ペンギンが滑落し、子供と一緒には登れないと判断した母に捨てられる子ペンギンが映っていた。私は鳥が大好きであるので、このような光景に非常にショックを受けた。野生動物の厳しい世界は、子供の頃からこういった番組を見ていたので知っていたが、やはり大好きな鳥の死体や捨てられる瞬間というのは堪える。番組を見てしばらく経った今でも、オスペンギンの死骸の傍に卵が転がっているシーンや、何度も母を呼ぶ子ペンギンのシーンが鮮明に浮かんできて、涙が出てくる。

その番組を見ながら「こんなことを何億年も続けてきて、いったい生命システムとはなんなのだろう。今までも、これからも、この理不尽なシステムに絡め取られた生命体が、何兆、何京と苦しみながら死んでいく」と強く感じた。

解決方法はないが救いはある

こうなると、「無意味な苦しみの連鎖を止めるため、生命はいない方が良い」となるのだが、実際に地球上の全生物を根絶やしにするというのは、現実的でない。「苦しみを減らす、なくす」という道徳的ポリシーなのに、例えば全世界の核を大爆発させて一斉に死のう、なんていうのは、今生きている全ての生命が甚大な苦痛を受けながら死ぬことになるのだから、言っていることとやることが矛盾している。

そうなると次に浮かぶのは「子産みを控えることで、段階的に減らしていき、最終的には絶滅する」だが、これも実際にどうやるのかを考えてみると非常に実現性が乏しいものだ。人口が減るにつれて労働人口も減っていき、生活を維持する為には住処を集中させていく必要があるが、どこにするのか?アメリカがいいのか日本なのか?また、生活レベルは確実に下げていく必要があるが、そんな右肩下がりしかない境遇では若年者が年配者に不満を募らせて(今の年金格差問題の超拡大版だ)、クーデターが起きるに決まっている。万にひとつ最後の一人まで行ったとしても、そのラストヒューマンは誰も仲間がいない中で、医療サービスを受けられず孤独死を迎えるだろう。果たしてそれは道徳的なのだろうか?それに人間だけならまだしも、昆虫やバクテリアを含めた全生物を去勢するのは明らかに無理がある。

だから、これらは「できないこと」であり、「考えても仕方がないこと」なのだ。

人間にできる解決方法はないが、「地球はいつか必ず滅びる」というのが救いである。あと5億年ぐらいすれば、核融合反応が激しくなって温度が上がった太陽のおかげで海が干上がり生物が住めなくなるし、15億年ぐらいすれば天の川銀河がアンドロメダ銀河と合体して衝突の衝撃で銀河の外に吹っ飛ばされるかもしれないし、50億年すれば赤色巨星になった太陽に地球は飲み込まれるか蒸発させられる。

さすがにこういう本当に「どうしようもない」理由なら、生物も絶滅することに多少納得ができると思う(少なくとも、核の大爆発や段階的な子減らしに比べれば)。5億年も経たずとも、太陽活動の変化やガンマ線バースト、氷河期、隕石衝突などによって生命は絶滅するかもしれない。それまでは生命システムが続くので、その間苦しみが無くならないことは残念だが、こっちの自然の流れに沿った滅び方の方がかなり道徳的といえるだろう。我々にできることは、諦めて、極端な解決方法を実行しないことだ。

子供について

子供を産むのが善か悪かについては、上述したように「生命システムは確かに欠陥品だが、我々は既にそれに完全に同一化しており、抗うことはできない」ため、ホモサピエンスの生物本能ということで出生・出産は容認してもいいのではないかと思っている。善だとも悪だとも思わない。

この考え方はヒトを野生動物と同じ存在だと見做す態度がベースになっている。人間はヒトの活動を過大評価して「私たちが地球を守ってあげなくては」などと考えるが、地球にとって人間の活動は全く脅威でもなんでもない。地球にとっての「自然な姿」とは、期間の長さからいうと、植物が誕生するはるか前の単細胞生物しかいない頃の様子であるはずだ。ヒトは一種の動物に過ぎず、その存在は一部の動植物にとっては脅威だろうが、同時に別の一部の動植物にとって好都合でもある。つまりヒトの出現は単なる自然環境の変化と捉えるのが筋だ。その自然環境の変化に適応した種が残るという、今までの地球の歴史とまったく同じことをやっている。世界中で栽培されている小麦や養鶏場のニワトリなどは、ヒトに寄生することで爆発的に生息域を広げ、しかも生まれてから繁殖して死ぬまで(「死ぬ」は無理やり行われるとはいえ)面倒を見させることに成功したとも解釈できる。シアノバクテリアの引き起こした環境変化に比べれば、ヒトの影響はかなり小さい。

話を戻すが、私個人としては「子供が欲しい」という気持ちが何故か全く起こらないので、その感想のまんま、実子を意図的に持つことは考えにくい。「苦しみを減らす」という観点で見れば、養子を取るのはあり得る選択肢だ。

エフィリズムとは関係がないが、世の中には実子を欲する人がかなり多く、そういった感情に触れるたびに「そんな気持ちがあるなんて驚いた、私には全然わからない」「わからないので、語りえぬものについては沈黙せねばならない」という感じになる。なんでこんなに子供が欲しいと思わないのか、我ながらナゾであるが、これこそが種の存続可能性を広げる多様性なのだろう。(→cf. さっぱり子供が欲しくならないナゾ

ヴィーガンについて

エフィリズムは「苦痛をできるだけ少なくする」主義なので、論理的な筋として“家畜を小屋に閉じ込めて太らせ、屠殺する”畜産業は悪と見做し、動物性の食品を食べない=ヴィーガンとなる。そして「ヴィーガンでない者は動物虐待に加担しており非道徳的である」と掲げている。

「エフィリズムであるならばヴィーガンであるべき」という論は、筋が通っている。実際にヴィーガン活動をしている人たちは、本気で動物の苦しみを取り除こうとしているのだろう。

私は特にヴィーガン活動はしていない。理由は「したいと思わないから」である。いくらその主張が正しく思われても、どれだけ「非人道的である」と評されても、「よし、しよう!」と前向きに思わない限り、わざわざ仕事後にはやらないのだ。その「したいと思わない」の後で、「値段が高い」「選別が面倒」「ただでさえ痩せている私が肉を食べなくなっても大丈夫なのか」などの理由が出てくる。ヒトが何かを考える時の順番はいつも「感情→理屈」である。だから「高くないよ」「選別は面倒じゃないよ」「栄養は問題ないよ」と説明されても、私は「気が乗らない」ので(気が向くまでは)ヴィーガン活動をやらないだろう。

私は「気が乗らない」でやっていないのだから、ひどいものだが、ともかく現状のヴィーガン活動は100人いれば100人が誰でも実践できるものではないと感じる。

ヴィーガン活動できない例を挙げると、毎日忙しく駆けずり回る営業マンは「ランチタイムに仕事のことを忘れてカツ丼をバクバク食べるから頑張れる」のだろう。同期との競争があり、その結果給料が決まり、それが子供の教育資金になるのだから、より優れた子孫を残すという本能上「動物のためにカツ丼は我慢」とはならない。この営業マンは動物に対して非情なのではなく、動物(ヒト)として当然の行いをしているに過ぎない。また、子供の教育資金を貯めている共働きの夫婦に金銭的な余裕はないだろうし、今はまだマイナーなヴィーガンレシピを作るための時間的・体力的リソースも余っていない。そして年頃の子供が誰でも「僕はヴィーガンなので肉は食べない」とクラスメイトに宣言できるわけではない。筋が通っていて正しいからといって、それを実行できるとは限らない。

ヴィーガン活動を今している人は、「したくて・できる」から、しているのだと思う。その活動の輪が広がっていけば、供給は需要に対応するためヴィーガン食の入手ハードルが低くなり、新しくヴィーガンになりやすくなる。こうして徐々に、肉食がヴィーガン食に置き換わっていくのは良いことだと思う。私は所謂イノベーター理論ではラガードであることが多いので、おそらくヴィーガン食は目の前に安価で出てきて初めて、安いとか美味そうという理由で注文するタイプだと思われる。

結局どうすればいいのか

生命の苦痛を少なくする方法は何もヴィーガン活動だけではない。例えば募金活動、ボランティア活動、献血、骨髄ドナー、里親など。これら以外も含めた「良心的な活動」の中で、自分が「したくて・できる」ものをやればいいだけだと思う。

全員がヴィーガンにはならないように、ヴィーガンの中にも献血に行かない者がいる。募金をしない者がいる。ボランティアに行かない者がいる。同様に、献血はするがヴィーガンではないとか、募金はするがボランティアは行ったことのない者もいる。人には向き不向きがあり、好き嫌いがあるのだから、ヴィーガン活動が合っている人は、それをすればいいし、採血が怖くない人は献血すればいい。

目に見える全てを行わないことは、別に悪いことや恥ずかしいことではない。原理的に不可能なのだから。世界全体の問題を何でもかんでも自分の問題として抱え込み、身を削って、その結果家族や同僚への機嫌が悪化するのであれば、やらない方が良い。

私はヘヴィメタルが好きなので、アメリカのスラッシュメタルバンド「メタリカ」のドラマー、ラーズ・ウルリッヒの言葉を引用してこの記事を終わりたいと思う。

自分でコントロールできないことで、くよくよ悩んで時間を無駄にするな。

ラーズ・ウルリッヒ(メタリカ)