哲学者とビジネス:エフィリズムについての所感 2

ここでいう「哲学者」とは、単に日常的に哲学的な思索を行なっている者を指す。

独立開業とエフィリズムの間に横たわる欺瞞

独立開業についての思考を進めて行く中で、自分のビジネスにおいて社会問題をどう取り扱うのが良いのか悩んでいた。社会問題を知っておきながら放っておくのは問題があると感じるが、しかし知っているからといって何でも放っておけないというのも納得できない。またそもそも社会問題というのは、人類の繁栄と存続のために解決すべきとされているものであるが、以前の私の哲学的立場としては人類(を含む全生物)の存続は望まないため、「問題を解決」するビジネスそのものを自分の意志で進めていくのは構造的に欺瞞があるという「大問題」があった。

以前の私の立場はエフィリズムと呼ばれるもので、過去記事に考えを書いている。

実現不能な理想を求めて

「こんなことを何億年も続けてきて、いったい生命システムとはなんなのだろう。今までも、これからも、この理不尽なシステムに絡め取られた生命体が、何兆、何京と苦しみながら死んでいく」

私は生命というシステムそれ自体に対して怒っていた。「自然な地球環境や動物たちを破滅に追いやる、邪悪な存在」または「豊かな地球や生態系を守ろうとしている英雄としての」人類すら、もはや被害者である。生命システムさえ生じなければ、今日のような苦しみはなかったのに。

神は一体何をしているのか?そして、皆なぜこれに気付かないのか?私は全く困っていなかったが、同時に世界一困っていた。生命という根本システムが酷い欠陥品なのだから、もう何をどうしたって酷いじゃないか。根っこが腐っているのだから、枝葉をどうこうしても仕方ないじゃないか。そのうえで「お役に立つ」だの「三方よし」だの言ったって、しょうもないじゃないか?

しかし、クリスマスに私の愛するヘヴィメタルを聴きながら湯船に浸かっていたら、それまでの考えは覆された。エフィリズムは、正しいが正しくなかったのだ。これに気付くためには、これまで親しんできた哲学や仏教だけではなく、天文学や量子力学の知見(といっても、本当に入口のかじり程度だが)が必要だった。こういう物理学に触れたきっかけは、夫が暇つぶしに見ていたYoutubeのゆっくり解説動画だから、いろいろな縁に感謝している。

結論を先に書けば、エフィリズムでは「生きていれば苦しむ。滅びれば苦しくなくなる。だから全て滅びた方がいい」という考えだったのが、今回の気付きによって「滅んでもどうせまた生じる。だから滅びにも意味はない。よって生命の存続はどうでもいい」(「滅んでしまえ」というニュアンスを含む「もうどうでもイイよっ!」ではなく、本当にただ「関知しない・関係ない・知りません」)になった。

仏教哲学と量子宇宙論のステキな出会い

宇宙の始まりは現在ではビッグバン(インフレーション)とされているが、「じゃあその前は?」ということで、「宇宙が始まる前にあった、もしくはなかった、何か」が研究されている。

大幅に話を端折るが、その中の仮説の一つで「ゆらぎの中で、たまたま爆発が起きちゃった」というのがあって、これが仏教哲学で言う「空」との親和性が非常に高く、その「ゆらぎ」は「空」そのものと言って良いように思う。というか量子力学や宇宙論について何か知るたびに「仏教じゃん」と言っている。元々仏教哲学について調べたり実践していた人に量子力学の知識を持ってきたら、化学反応が起こったというわけだ。私の感ずるところによれば「この宇宙は最初かもしれないし、何兆回目かもしれないし、同時に何個も発生しているかもしれないが、ともかく揺らぎの中で生じたり滅したりを永久に繰り返している」というのが一番しっくりくる。直観的に正しいと感じる。

ただ「しっくりくる」だけであり、科学的な解釈とは関係ないのだが、私の人生あるいは今現在においての独立開業にあたっては、この「しっくりきた!」が何よりも大事なのだ。心に矛盾を抱えていると、目的地は蜃気楼になる。行けるところにも行けなくなってしまう。ありがとう量子力学。これで、安心して方向性を見定めて歩き出すことができる。

自分にとっての「楽」を求めて

「この宇宙が何度も永久に生じては滅しを繰り返し続ける」となれば、生命システムに怒って地球を滅ぼしたとしても、また次の宇宙で次の地球が生まれてくるだろう。しかしそれもそのうち滅び、そうしたらまた生じてくる。何もしていないニートに見えた神や仏は、本当に何もしておらず、人間と同じで、滅しては生ずる流れには逆らえない可憐な存在なのだった。

生じることだけでなく、滅びることにも意味がないと実感できて、今はとても楽になった。生じてもどうせそのうち滅ぶし、滅してもどうせまた勝手に生じるんだからな。社会問題に対しては「やりたくなったら取り組めばいい」というスタンスで、基本的には自分が楽だと感じる方向で進めようと思う。一見、本当の価値があるように感じられる社会的評価というのも、実はタピオカブームと同じ一過性のものなのだ。

とはいえ、生命システム自体による苦しみは消えない。苦しみも、生じては滅びを繰り返し続けるものだ。インターネットに接続したりテレビを見ると、自分ではどうにもできない生命システムによる苦しみが溢れており、無駄に疲れるだけなので、自分に直接関係ない情報はなるべくシャットアウトしようと思う。