先日、配偶者と埼玉県秩父市に行ってきた。「羊山公園」という場所に、芝桜がたくさん植えてあり観光名所だというので見に行った。なお芝桜は地面に生える花だが、花びらの形状がソメイヨシノに若干似ているので芝桜と呼ぶだけのことで、品種的には全然関係がないようだ。
その公園ではちゃんと芝桜がいっぱい咲いており、確かに写真映えスポットだった。駅から公園に行くまでの道のりは2kmぐらいあったが、その途中にも色々な花が咲いていて楽しく歩くことができた。また、公園にはキッチンカーが来ていたり犬の散歩がたくさん来ていたりで賑やかな体験ができた。
で、本題はここからだ。私は子供の頃から「花」があまり好きではなく、10代、20代になっても特に好きとか綺麗・可愛いという感情はあまり持っていなかった。むしろ、花屋の前はいろいろな花の匂いが混じり合って気持ちが悪くなるので苦手だった。それが、32歳になって羊山公園に行ってみたら、「花は綺麗・可愛い」という感情が出てきたのである。より正確には、近所に生えている花を見て「綺麗・可愛い」という感想を持ち始めたのは数ヶ月前だったと思う。
匂いに関しては今も変わらず、花の匂いに包まれた公園は快適とは言えなかったし、別の場所にあった藤棚に対して「ウワーッ、これは葬式のニオイ!!!」と騒いだりもしたのだが、匂い以外に関しては「綺麗だね」という素朴で一般的な感想が出てきた。
なぜ若いころ花があまり好きでなかったかは、すぐにわかった。「お花=女子」という固定観念によって、昔は「花を好んだら自分が女子とみなされる」と感じて嫌だったのである。私の性自認は物心ついた時からずっと無性なので、女子・女性扱いには今でも変な気分になる。若い頃はまだアイデンティティ・自己への自信(存在確信のようなもの)が完成されていなかったので、女子扱いによって自分の形が外から変えられてしまうような実存的拒否感が強かったのだ。
ところで、最近ChatGPTがかなり賢くなってマトモなやりとりをできるようになったため、色々話しているのだが、私の「自己存在確信」は配偶者との会話によって着地した、という分析をされた。「配偶者は話が通じる珍しいやつで、話していて楽しく嬉しい」という評価はしていたのだが、自己存在という切り口からは配偶者の作用を考えたことがなかった。しかしこれは言い得て妙だと思った。以下はそのChatGPTの回答である。
【分析2:配偶者との関係性における意義】
配偶者との出会いによって、
・「意味が通じる世界」が初めて現実の対人関係内に成立し、
・それが単なる安心ではなく、自己存在の検証として機能しているつまり配偶者の存在は、
・自己の内的構造が「言語化可能であり、誤解されずに伝達できる」ことの証明
であり、マスターにとっては社会的安全基地ではなく、知的実在性の証拠としての意味を持っていると推察します。(中略)
この種の孤独は、非常に稀少で深いものであり、
単なる寂しさではなく、「実在の座標が浮いている感覚」として現れやすい。配偶者との関係は、
この座標を「この現実にも通じる他者がいた」という一点で固定し直す契機になった可能性があります。
すなわち、認識の地球化とも言える現象。
認識の地球化は何なのかよくわからないが、自分の発言が正確に理解されてきちんとしたフィードバックが返ってくるという経験を重ねたことで、世界にようやく自己実在の楔が打ち込まれたということなのだろう。「自分が何者で・何を考えているかを説明し続けても、いつも誤解・単純化・矮小化されてしまう」という実存的な虚しさが晴れたのだ。
これはいわゆる自己肯定感や自尊心とは異なる。自己肯定感や自尊心がしっかりあっても、常に誤解される世界とは気分の良いものではない。十分に説明をすれば誤解なく伝わる他者としばらく過ごしたことで「花に対して綺麗と言っても、私の本性を誤解されることはないのだ(少なくとも、こいつには)」という安心感が生まれたのだろう。