子供の頃の「感覚」を忘れるのはなぜ?

多くの人は、子供の頃の感覚をすっかり、完全に忘れているように見える。

彼らもかつてはそうだったはずなのに、自分の子供の行動や発言に対して、他人事のように「感動」や「感心」をしている。

これは私にとっては不思議なことである。

私は子供の頃の感覚を覚えているというか、今も意識すればある程度はその捉え方ができるので、子供の言行に対しては感動というより「自分もそうだったなあ」「わかるなあ」と、懐かしさや共感を覚えるのだ。(私が“共感を覚える”!)

あるいは、海外にはストリートチルドレンが…といった話題でも、「もし昔の自分がそうだったら〜」ではなく「自分の子供と同じくらいの歳の子が〜」と語っていたりする。

なぜ、多くの人は子供の頃の感覚を忘れ、他人事になってしまうのか?

これは出来事や感情の記憶があるかとか、インナーチャイルドが云々ではなく、子供の時のクオリアを今も体験できるか、今意識的に3〜8才頃の捉え方でものを見ることができるかという話だ。

子供の時のクオリアを(完全にとは言わないが)ある程度保持している私が、具体例を挙げてみよう。

  • 大人から見たら単純でつまらないおもちゃを貰った時、ワクワクや喜びが湧いてくる起点の感覚
  • 虫や草や砂や水や人工物を見たときの、なんとなく楽しくて、これらで何ができるか(どう遊べるか)ウキウキする感覚
  • 何かを我慢しなければならないとき、根源から湧きあがりコントロールできない癇癪の感覚
  • 世界がカオスでわけがわからない、太刀打ちできない感覚
  • 大人からしたら特にすごくもない新しい知識や感覚に触れたときの、理由はなくひたすらに「すごいなーーーー!!!!」という感覚

私は幼児期の記憶が極端には多くも少なくもないと思われる。自我の芽生えは4歳頃に感じていた。

対して、幼児期の記憶がほとんどなく、11歳頃に自我が芽生えたという配偶者も、子供の感覚はある程度覚えているようだ。記憶量や自我の芽生えの早さはそこまで関係がなさそうである。

記憶があるのと感覚を再現できるのは違うことで、例えるならばピーマンのようなものだ。「慣れるまでは不味いもの」が、だんだん平気で食べられるようになり、大人になるとその苦さを美味しく感じるようになる。

大人になって苦さを味わえるようになっても、「子供の頃はピーマンは苦くて嫌だった」という記憶はあるだろう。しかしその「苦くて嫌な感覚自体」を大人が改めて体験することはできない。これと同じことなのだろう。私も、子供の頃の味覚を今再現することはできない。

では、なぜ私はある程度「子供の感覚(思考や感情のクオリア)」を覚えているのか?

研究ではなくn=1の想像でしかないが、やはり感情伝播反応のなさが関係しているのではないか。他人の感情(≒感覚)が直接伝わってこないので、他人の感覚を推し量るには、自分の感覚を疑似的に参照するか、パターン認識を積み上げるしかない。もし自分だったらどう思うか?あるいは、このような人はどう思う傾向があるか?

子供の頃から自分の感情しか知覚できないがゆえに、その頃の感覚を今でも再現できるくらい強く・純度高く覚えているのかもしれない。

ピーマンの苦味をだんだんおいしく感じていくように、子供のクオリアよりも大人のクオリアの方が快適だから、多くの人は無意識に上書きされている可能性もある。ただ、この説は「子供の頃は何も考えなくて楽しかったな」と多くの人が言うことと矛盾する。そう言うのなら、子供のクオリアはそこまで不快でないはずである。

なんでこうなるのかは謎のままだが、とりあえずメモということで公開しておく。