私は身体が女性で精神は無性のいわゆるノンバイナリーであり、MBTIタイプはINTX(INTPとINTJの中間あるいはどちらか)だと自認している。昔はINTJで今はINTPというのが割としっくりくる。
最近、取引先から「新しくルールができました」とアナウンスがあり、それに対する自分の反応や過去の考えを検討した結果「性別違和があることは、MBTIでいうP型的特徴を伸長させる説」を考えついたので記事を書いていきたい。
大組織化のかなしみ
おそらく今回の取引先の新ルールは、組織拡大に伴って必要になったものだと思われた。いろいろな人々が一緒に働く中で、クライアントからこういう要望が来たので、みんな揃えましょうという具合だ。
ルールとはトップの目が行き届かなくなった時に生えてくるものである。例えば、ブッダは自分で著書を遺さなかったが、彼の死後に弟子たちの口伝から仏典が編まれた。直接みんなの修行を監督してくれるブッダがいなくなったので、忘れないうちに明文化しておこうという働きだ。ルールはトップの擬人化ならぬ擬文化といえる。
私自身はこれまで大企業に勤めたことがない。全体の従業員数が100人ぐらいの会社にはいたことがあるが、その会社の事業形態上、事業所が細かく分かれていて1事業所には15人くらいしかいなかったので例外的である。なので「大企業病あるある」のようなネタは実感としてはよくわからない。
ただ、配偶者は以前勤めていた会社でまさに「大企業化の哀しみ」をリアルタイムに経験したという。ベンチャー企業から大企業へと組織が成長していくにつれ、テキトーに属人化されていたさまざまな仕事が明文化されていき、融通が効かなくなって、いちいちルールに沿った文書にしないといけなくなり、かなり働きづらくなっていったようだ。意味不明で生産性のない謎ルールがどんどん積み重なって、誰も正確なルールを把握しておらず、ルール同士で矛盾が起こっていてもおかしくない状態だったようだ。
さて、子供の時はルールなどよりも性別違和や学校生活の嫌さが大幅に上回ってあまり気にかけていなかったのだが、社会人になり独立し一人で働いてみて、ようやく気づいた。私にはどうも「ルールを課されるとやる気がなくなる」心理現象がある。実際、先ほどのアナウンスを読んだら1秒で「ウゲー」となった。ただただ嫌すぎる。内容や意味が云々というより、「ルールを守りなさい」と言われること自体にウンザリしてしまう自分に気づいた。ルールを守ること自体が嫌で、何が何でも余白は欲しいと感じるのは、MBTIでいうP型である。
性別違和生活の結果、ルール嫌いに見える
ところで、このような「P型的特徴」は性別違和によって強化されたような実感がある。性別違和そのものというより、性別違和を原因とするさまざまな経験や感情でP的な方向=ルール嫌い・柔軟性重視に流れてきたように感じる。
たとえば性別違和があると学校の制服に強い抵抗感を覚えるのだが、その抵抗感が精神の性別(性自認)と異なる性別の格好を強制させられるからなのか、それとも服装の強制というルールや校則自体が嫌なのか、子供心に判断することは非常に難しい。仮に大人でも自己分析が進んでいなければ難しいと思う。
私の場合、トランスジェンダーとか性別違和などの言葉を知ったのは16歳の時で、それまでは「私の生活(人生)における“全般的な何か”が非常に嫌だが、何が嫌なのか正確にはわからない」といった感想であった。自分の肉体とは生まれてきた時から完全に一体化しており、性自認は目に見えるわけでもないため、心理的抵抗感や違和感という微妙な形でしか認識することができない。外部から観測することもできない。なので言語化できるまでは「自分にしかわからない、ナゾの嫌な感じ」なのである。
制服やランドセル、机の男女わけ、男女に分かれての作業、男女で人気の役割やコンテンツが違うこと、クラス内でのグループ、服屋やおもちゃ屋での男児/女児エリアの区分け、トイレや銭湯、親や親戚の期待、メディアにおける印象操作など、生活のありとあらゆる場面で「性別分け」は行われている。多くの性別違和者は、これらに対して「悪」とまでは思わずとも、違和感や疑問、「自分は他の子達と違うらしい」という感覚を覚える。それらが積み重なっていった結果、内情としては「性別違和と社会のぶつかり」なのだが、外見からは性別違和は見えないので「とにかくルール自体が嫌いな人」に見えるのではないか。
また、自身の違和感が性別によるものだと発覚した後は、自ら(+同志)の生活を快適にするため「ルールを柔軟に変えよう」「多様性を認めよう」という方向性に主張が傾く。多様性が正しいと思っているからというよりも、実生活においての自分のデメリット(感情労働)を減らすとか、多様性が認められない=自分の存在が認められない=まともな会社に就職できない?などの「実務的理由」も相当絡んでくる。性別違和のない者から見れば「感情的・イデオロギー的」に見えると思うが、当事者にとっては「実務的」な側面が半分以上を占めるという、大きな認識の断絶がある。
このような「性別違和生活」を続けた結果、「ルールを疑う」という精神構造がデフォルト認識になっていき、結果としてMBTIにおいてP的な特徴が伸びてくると思われるのだ。
LGBTQ+コミュニティの自由?な雰囲気
私はXジェンダーのコミュニティに所属しており、「東京レインボープライド」にも参加したことがあるが、LGBTQ+コミュニティには独特の自由な雰囲気がある。一般的によくある「人それぞれだよね(でも常識は守るよね)」ではなくて、「自己表現が正義」「常識は無いのがよい」というか、もはや「自由であれ、というルール」「自由が常識」のようだと感じる。心理機能で言うとFiがぶっちぎっている感じだが、これもやはり各個人のFiが強いというより、集団で「多様性」というイデオロギーを掲げれば結果的にそう見えるのだと思う。一人一人の機能はTiだったりTe, Siなどであっても、それらの能力を振り向ける方向性自体がFi的(性別違和は根拠が自分の感覚しかないので必然的にそうなる)であれば、集団全体が感情集団のように見える。とはいえ「自由であれ、というルール」「自由が常識」と言った通り、よく見ればTeないしFe的な雰囲気は多分に含まれている。
ちなみに音楽や絵画などのアーティスト集団も、表面上はLGBTQ+コミュニティのような「自由集団」に見えるのだが、LGBTQ+コミュニティの方が圧倒的にTe・Fe的(組織的)である。自由とか自己表現ではなく「社会革命」という文脈、つまり政治集団として捉えた方が良いと思う。対してアーティスト集団は本当にFi的・個人主義的で、集団としての政治的意思はない。「自由というルールを守れ!」ではなく、単に「個性があるやつがすごい(個性がない人は知らない・興味なし)」である。LGBTQ+コミュニティは一見自由に見えてその実、かなりJ的なのである。ただ内部の人間(特に、組織を率いるわけでもない一般参加者)一人一人は「性別違和生活」を続けた結果「ルールを疑う」のが通常運転になったP的な者が多いように見える。