大衆は成功者をおもしろおかしく語る。努力はおもしろおかしくないのだ。
才能という言葉が嫌いなのだが、それは成功者がそれだけで評価されたら困るからでもある。努力や運や環境や才能もろもろ沢山色々とあって、かくして評価されてますね、というのがただしい。
才能が、親が、配偶者が、環境が、学校の先生が、時代が、運が、良かったから、あいつは成功者になれた。イケメンだから、金持ちだから、話上手だから…かたくなに、成功者の努力を認めようとしない。その無意識の裏には、…才能がないから俺はなれなかっただけ!親が悪かった!時代が悪かった!…そういう思いが透けて見える。
しかし、努力という言葉が使われるときもある。「努力の人」「努力の天才」である。やっぱり、自分と同じ人種が、頑張った結果上に行けたのを認めたくないんだろう。
成功者が才能で上に行ったとしたら、自分は上に行けないかもしれない。人間の才能は、ポケモンと違って数字に表れないから、自分に才能があるかどうか分かるわけはない。成功者が才能で評価されていては、凡人の可能性がある私が困るのだ。だから、私は「才能」という言葉は使わない。
私は、男の体じゃないから、深夜にフラフラ散歩したり一人で世界放浪なんか行くのは危ないと思っている。しかしこれらは、できるならしてみたいことだ。もっと言えば、男に生まれてたらしたかったことだ。
本気で、生殖器を撤去するか薬を飲むかして、護身を学び体を鍛えればいけるかもしれないとは思うのだが、それはしない予定だ。なぜならば、その鍛えること、その結果得る体、その後の人生を、なぜか魅力的に感じないからだ。これは変わる可能性があるので、魅力を感じて決意したその時は、鍛えに行くことだろう。