究極神に殉ずる

「究極神」というのは、真理であり、大いなる存在であり、コナトゥスであり、要するに「自分の方向性」や「宇宙の流れ」あるいは「ナマの事実」のことである。なぜか、ただ、そうなってしまう。ひたすら、そうである。という一種の流れだ。

学生時代にデッサンをしていて、先生に「コントラストを上げてみなさい」と言われたことがある。試しにコントラストを上げてみたら、すぐに「良くなった」ように感じた。その絵はまだ母校に保管されているようだから、実際に良いデッサンにはなったのだろう。

しかし、「意図的に見た目を調整することで、作品が良くなる」という現象に、私はかなり困惑した。

コントラストを上げるという操作は、個別具体的である。対して、コントラストが低い状態で真剣にモチーフを描いていた私のビジョンは、究極神のある方向を見つめていた。

個別具体的な操作は、「ま、こんなもんでしょう」という終わり方をする。個別具体的な操作自体に「だいたい、このへんでよし」というラインがある。

対して、究極神に殉ずる態度には、終わりがない。永遠に未完成・不完全なのである。終わりがわからないが、他のこともしたいし、なんか飽きてきたので、あるいは時間切れなので、半ば無理やり終わらせるのだ。

「カラー&ライト」という有名な絵の指南書があるのだが、その本を読んで実践していた時も、同じように困惑した。間違いなく「一般的に、良い・レベルの高い絵」に近づいているのだが、それは「テクニック」という個別具体的なものを整えた結果であって、私自身が「究極神」のもとに近付いたからではないのだ。

世間の雰囲気を参考にして「個別具体」にかまけているとき、私は究極神のジャッジメントを欺く試みをしているように感じる。こんなに知識を入れて練習してます、これは理論上正しいんです、歴史上この流れで来てます、今は実際これが売れてます、などのお喋りで作品をコーティングすることで、究極神の目をごまかそう・勘弁してもらおうとしている気になる。

絵画やイラストの上に「黄金比の図形」や「分割の線」を引いて「こんな理論が使われているから美しいのです」と解説されるが、あれらの補助線が完全にピッタリと当てはまっていることは少ない。殆どの場合、ちょっとズレている。というか経験上、補助線に正確に沿うよりも、自分の美的感覚を元にした結果、補助線からズレている方が断然美しい。

黄金比や三分割構図が美しいのは「美しいと感じてしまうものには、比較的それらの構図が多い」という話でしかなく、自分の美的感覚よりも優先するものではないのだ。

この「美的感覚」への忠誠こそが、まさに「なぜか、ただ、美しく感じてしまう」という真理の一側面に通ずる道であり、コナトゥスの一種であり、究極神に殉じることである。

芸術分野だけでなく、ビジネスモデルやキャリアプランなどの仕事関係や、趣味にまつわる事、哲学的問題など、ありとあらゆる物事に「究極神」はいる。

真理や美に触れたときには「ただ、ひたすら、理由なく、絶対に正しい(美しい)」という感覚が、向こうからやって来る。真理の顔には真理と書いてあり、美の姿は美しい。究極神は、人間のほうから「ワンチャン真理かもしれない」「一旦この話は受け入れとくか?」などと歩み寄られるような低次の存在ではないのだ。

「私らしさ」とは、「私らしさとはなんだろう」と私が考えた結果ではなく、私を突き動かす神の現れ方である。神はどのように現れたがっているのか……人間に選択権はない。究極神=真理=大いなる存在が提示した「絶対性」に、我々はただただ圧倒されるだけなのだ。