なぜ私はAlexi亡き後のCOBに無反応なのか?

あんなにヤンネ推しだったのに……ひょっとすると突然興味を失ったように見えているかもしれないので、かなり今更だが説明しようと思う。

アレキシがこの世を去ったあとも、COB公式はいろいろなグッズやアパレルや書籍を出している。思い出写真の展覧会などもやっていたし、来年はサミ・エルバンナを迎えつつCOBメンバーが集まってトリビュートライブをするようだ。

一応情報を追ってはいるのだが、私はこれらの商品を1つも購入していないし、現地まで行くモチベーションも低い。もし良い機会があればお墓参りに行こうかというくらいだ。いったいなぜか?

その理由を一言でいえば「今、COBは存在しないから」である。

いや公式が動いてるんだから存在はするでしょ…という意見の方は、そのままで全然いいのだが、あくまで私個人の立場としては、COBはアレキシの死とともにこの世からなくなった。

「今、存在しない」というのは、COBの概念自体は今ももちろん残っているが、過去の思い出になってしまって、現在は生きていないという意味である。例えるなら、ソクラテスという人物を今指し示すことができることと、ソクラテスが今生きていることが、一致しないのと同じである。

今でも「Children Of Bodomが大好き!!」とは言いうるが、その「生きたChildren Of Bodom」は1997年〜2020年(2019年ではない)にしか存在しない。アレキシが亡くなった後のCOB公式の活動はすべて「思い出話」という捉え方になっている。かつて熱狂したものへの思い出話は自然だが、思い出話のトーク自体に熱狂はしない。だから私は無反応なのである。他メンバーに失礼だという意見や、レガシーを伝える責任があるという考えもあって然るべきだと思うが、それでも私はそう捉えている。

つまり私は「Alexi LaihoはCOBの必要条件」という立場なのだ。

ただし「アレキシさえいればCOB」ではない。私にとって「完全なCOB」とは、アレキシ・ヤスカ・ヘンカ・ヤンネの4人が揃っており、5人目にリズムギタリストがいる状態だ。

反対に、COBの存在もアレキシの必要条件のように感じている節がある。Bodom After Midnightをそこまで必死で追わなかった感覚を振り返ると、どこか(私の中の最強概念としての)アレキシは、COBがなければ完全ではなくなるような気がする(もちろん、一人の人間としては、みな生まれてから死ぬまで完全である)。

COBが解散した瞬間、アレキシの(私の中での)完全性が(私の中の概念としては)なくなった。そして、アレキシがいなくなった瞬間、COBも(私の中では)過去のものになり、追う対象がなくなった。という心理構造なのである。

何度も繰り返しになるが、あくまで私個人の感覚であって、どの感覚が正しいとか誠実とか真っ当などと競うものでは全くない。ファンそれぞれの人生にとって、COBという存在の意味はそれぞれ違うのだから、この辺りの認識が人によって違うのは当然のことなのだ。


私は公式厨を通り越して原作者原理主義なところがあり、例えばポケモンの「本当の公式イラスト」が描けるのは杉森建だけであるとか、ポケモンカードの絵は外注イラストレーターだから非公式である、などの感覚がある。

私自身が二次創作を作ったり、他の人の二次創作を楽しむことはあるし、非公式が悪いことだとは全く思わないが、根が原作者原理主義なので、コミケまで行ったことはない。この感覚は音楽でいうと「作曲者原理主義」となり、アレキシやCOBの捉え方にも繋がっていると思う。