時々「もし、16歳の時うつ病になっていなかったら、今ごろ私はどんな生活をしていただろう」と思う。
「世界線」という言葉がある。「バタフライエフェクト」と言ってもいいだろう。ある出来事がまた次の出来事に影響を及ぼし、1つの小さな違いから大きな差異が無限に発生する。これが私の人生にも起こっているとして、「あちらの世界」はどうか?と想像する。
「パラレルワールドは存在する」と思っているわけではないのだが、思考ゲームとして結構面白いので、よく思い浮かぶのだ。
うつ病にならなかった場合のルートは沢山考えられるが、すぐに思いつく世界は以下のようなものである。
高校卒業→四年制大学→就職
まあこれが一番わかりやすい、単純かつ雑な考えである。うつ病にならずに無事に卒業し、そのまま四年制大学に進学して、いい感じに就職する。
大学受験をしていないので詳しい偏差値や学部を知らないのだが、鬱になる直前の「将来の夢」は検察官だったから、法学部が一番に考えられる。しかし当時から哲学や心理学に非常に興味があったので、そっち方面もありえるか。いずれにしても文系である。明らかに陽キャではないので、鬱になっていなくても就活は結構しんどかったのではないか。そういう意味では理系に進んだ方が幸福度が高そうだが、私の周囲には大卒が全然いないので、アドバイスが届くかどうか怪しいところだ。
高校受験の際は「勉強はまあまあできるから、将来の幅を広げるために、とりあえず進学」だった。大学まではそれでギリギリいいとしても、就職となるとほぼ「将来」そのものの選択なので、何を基準に就職先を決めるのかは不明だ。検察官になれたらカッコいいが、凄惨な事件現場を見続けるのに耐えられるのかというと中々厳しいものがある。無難にJTCや公務員を狙うか、あるいは親の影響を受けて航空系かもしれない。教職を取るという選択肢は今思えば魅力的だが、そもそも学校という施設が大嫌いなので、大学教授や専門学校の非常勤講師のような専門職系でもなければ、わざわざ校舎に戻りたくはないだろう。
高校卒業→美大→就職
一般的な大学ではなく美大に進学するパターンもある。とはいえ美大受験のためには画塾に通う必要があるので「せっかく進学校にいる状態なのに、受験科目はそこそこにデッサンに時間を割き、美大に賭ける」心理的ハードルの高さがある。また、画塾の費用を払った上で東京芸大に受からなければ私立or遠方で一人暮らしなので、費用面でも割としんどい。鬱になっていなくても美大ルートは微妙だろう。
高校卒業→四年制大学→就職→社会人生活に耐えられず、うつ病・ニート or 就職失敗でニート
実際のところ、これになる可能性が一番高かったと思う。要するに「いつ鬱になるか?今でしょ!」の「今」はいつか必ず来る、来なかったら私じゃない、ということだ。
現・世界線の私も、高校の時のみならず社会人になってからも何度か鬱っぽくなっている。もともと私はそんな人生になるのだろう。仕方ないね。
10代でずっこけるのと、20代でずっこけるので、どちらかマシなのかは難しい。大卒資格を持っている分、社会人になってからズッコケるパターンの方がまだ良い説もある。学生時代の1年はかなり重いが、30代40代の1年はそこまででもないので、同じ3〜4年休むなら歳食ってからのほうが良いという視点もある。ただ子供がいると話が変わりそうだ。
周囲の悲壮感という面では、10代なら「まだ若いしチャンスは残っている」とはいえ「学校でダメなら社会人はもっとダメなんじゃないか?」的な絶望感もありそうだ。まあ実際のところ、私にとっては(高校までの)学校生活よりは、社会人の方が楽なのだが・・・。
結婚はしていたのか?していた場合、どんな人物か?
現・世界線で私と一緒に住んでいる人物は、かなり変な奴である。しかも、優しくて賢いので、とてもいいやつだ。見た目は全く好みではないが、そもそも日本人のロン毛派手髪お兄さんは20代までしか生きられない(フィンランド人なら四十路まで大丈夫だが、私は日本人顔が好きなのだ)ので、いずれにしても30代以降は見た目が大して好きでもない者なのが確定である。
27歳の時にマッチングアプリで婚活していたのだが、その時は「学歴も社格もない、年収低い、子供は産みたくない、容姿が美しくない、メンタル疾患ありなので、“20代”という最強カードが切れるうちに結婚しておかないと、後でしたくなってもできなくなる」と思ったのだ。
で、これがもし先述の「四年制大学→就職」になっていた場合、「学歴社格普通、年収まあまあ、子供産みたくない、容姿美しくない、メンタル健康」になるので、多分相手に求める基準が引き上げられて、競争相手が増え、婚活の難易度は上がったと思う。今どき社内結婚に期待するのは厳しいから、マッチングアプリや結婚相談所を使うだろう。そうすると社格や年収などの要素が今より気になって、気が合うはずのおもしろ人間をスペックで足切りしてしまう危険性が高まったと思われる。人生とは難しいものである。
仮にそれで結婚したとして、今のようなおもしろ人間と面白ライフを楽しめたかというと、どうだろう。面白人間には鬱屈した精神が不可欠であり、鬱屈したものは陰気同士で吸い寄せあうので、今ほどの充実感はないのかもしれない。
小学生のころ「私も将来は、両親のような家庭を築くのだろうか?」と、大人になった自分が家族に配膳している姿など思い浮かべてもいたが、いまいち明るい気分にはならなかったものだ。
結局「普通」じゃ満足できない人間なんだから、いつ鬱になろうが、それが“私”である限りは現状に似た形に収束しているのかもしれない。私の最も重要かつ基礎的な要素は、哲学と芸術なのである。