「誰が言ったか」の「誰」は、一般的には肩書き・知名度・実績などを指す。「高学歴だから正しい可能性が高そう」とか「有名企業の役員だから深い意味があるはず」「実績がたくさんあるから信頼できる」などの認識である。
これらの認識は、あまり時間がない中で暫定的な答えを出すには、それなりに有用である。また、経験が絶対的に足りていない若い頃には、レッテルに頼らない判断基準がまだ構築途中であり、このような指標にある程度頼らざるを得ない側面もある。そしてビジネスでは競争しているので、スピードと再現性が大事になって実績が重要視される。
対して「何を言ったか」の「何」とは、そのままの意味であり、発言者の立場が大学教授だろうが社長だろうが、小学生だろうがニートだろうが関係なく、内容の正しさだけを見るということだ。これは誠実な態度にも見えるが、実際は内容だけでは判断できないことも多い。
「何を言ったか」を(ビジネスに限定せず、より広い文脈で)しっかり判断するためには、正しい「誰」の定義が必要である。それは社会的レッテルではなく、発言者にどのようなバックグラウンドがあり、どんな考えを持っていて、どの立場(利害関係)から言ったかだ。すべての発言者の背景を精査するのは現実的ではないとはいえ、その意味での「誰」は、「何」を意味づけるために必須の情報なのである。
よって「誰が言ったか or 何を言ったか、どちらが大事なのか」的な二項対立にせず、両方を互いに関係づけるのがよい。
「人生とは何か」「今の仕事を続けていいのか」などを考える場合、「誰が言ったか」の「誰」の意味を社会的肩書きに矮小化してはいけないのである。例えば、有名企業の役員とか、いかにも成功していそうに見えるインフルエンサー、あるいは高名な哲学者の人生論などを「偉い人だから」といって鵜呑みにしてはいけない。その役員が子供だった頃の家庭環境はあなたと全く同じではないはずだし、そのインフルエンサーとあなたの脳内物質の受容体の働きは異なるだろうし、その哲学者とあなたは生きている国や時代が違う。
逆に、厭世的な者の「反論不能な理屈」に言いなりになるのも良くない。同時に、人生論を垂れ流しているブロガーがニートだったとき「ニートだから価値のない意見」とすぐ切り捨てるのもいけない。しかし、社会経験が少ない故の理屈の甘さを大目に見てやる道理もない。
「何を言ったか」に「誰が言ったか」を関係させて、なぜそう言ったのか・どのような事情があったのかを推し量らなければ、真の意味で「何を言ったか」は分からず、評価のしようがないのである。
そうして自分なりに色々考えた結果「よい考えだ」と評価したならば、今のあなたにとっては良いものである。時間が経って「あまり良くなかった」と考えを改めることもあるだろうし、以前は気に留めなかった意見が立場が変わると意味を持ち始めることもある。同じ発言者のいう複数の意見に対して「この意見は良い考えだと思うが、こっちの考えには賛同できない」ということもある。
ある人が評価されるかどうかというのは、時代の気まぐれでしかない。しかしそれでも、発言とその背景から「よい意見かどうか」を自分なりに判定・感受することはできるはずだ。時代はあなたとは関係なく動き続けるのである。