こんばんは!私は闇の味方、夜の住人でいたいので、いつでも「こんばんは」です。使い魔を得られるとしたら、絶対カラスがいいですね。トカゲとかカエルもいいなあ。とかいって、トップ画像は猫なんですが。
さて、久しぶりに瞑想をしたら、いい気づきを得られました。個人的に「風呂とトイレはアイデアの泉」だと思っているのですが、風呂に入りながら瞑想をしたら、こうなりました。
感情に善悪なし
まず前提として、「いい感情」「わるい感情」というものは、ありません。
例えば、喜びや楽しさは感じるべきだけど、悲しみや苦しさは感じたらダメ、ということは全くありません。幸せなのは喜びで、不幸なのは苦しみだ、というのは一般論に過ぎません。どんな感情も等しく、人間が発する信号であり、ただそれだけです。感情を感じると「そういう気持ち」になりますが、それだけです。
「苦しい」と感じたら、逃げる。逃げるために出てくる道具が感情なのであって、「苦しい」という感情自体に重要な意味があるわけではない。その気持ちをバネにするとかはできますが、気持ち自体が何かすることはないですね。
感情は、ただの信号、ただの色です。それに人間が振り回されたり、逆に利用したりしている、そうすると「感情を基にした結果」ができる、というだけの話です。
無理すんなよ
で、例えば友人が結婚したとします。
「結婚、おめでとう!!」
……と、言いたい時は言えばいいんですが、言いたくない場合もある。
「言える人」「言えない人」というよりは、「言える時」「言えない時」だと思います。だって、今「言える人」も、仮に明日脳梗塞で倒れて「余命1ヶ月です」とか言われたら、他人の幸せを今までと同じように喜べるかは、怪しいじゃあないですか。今ものすごく幸せで、あらゆるものに祝福できる気分の人でも、明日大地震が起きたら生き残るのに精一杯になっちゃうわけです。これは別に「かっこわるいこと」でも「未熟なこと」でもなんでもなくて、人間の機能としてそういうものです。
話逸れましたが、べつに「おめでとう!!」って常時言えなくてもいいし、言わなくてもいい、なんなら「おめでたいなあ」と思う必要すらないんです。言いたい時は言っていいですが、善悪の話じゃないです。感情に善悪はありません。自由に選んでください。
世間的には「友達の幸せを喜べるのは良いことだ」「結婚は幸せなことだ」というムードがあり、「他人の幸せを素直に喜べる人になろう!」というあやしい言説すら流布していますが、こんなのは一種の噂話程度に思っておいてよろしい。
だいたい、「素直に喜べる」って何なんですかねえ。私の「素直な気持ち」は、上に書いた文句ですが、「素直に喜ぶ」とか言っている人々にとっては、これは「ひねくれ」なのであります。
そもそも、感情はいつでも素直に出てくるものでしょうが。感情は常に素直。ひねくれてるのは、いつも理性、言葉です。嬉しくないなら、特に嬉しいそぶりを見せないのが「素直」です。べつに嬉しくもないのに無理して「おめでとう!!」と言う方が「ひねくれ」です。
身の回りで、「他人の幸せを喜べるのは素晴らしい!」などというあやしい呪文が流行していても、それを盲信する必要はありません。
「あたし、結婚するの!!」「へ〜」で、いいのです。
ここで無理して「(あっ、友達の幸せだから、喜ばなきゃいけないんだ。でも、べつにそんなに嬉しくないぞ。とはいえ、ここは普通喜ぶべきだし、その方が人格者になれる気がする。) おめでとう!」とか、ならなくてよろしい。
「へ〜」
これですね。
それで「なにこいつ。私の幸せを喜ばないわけ?!」とか思われて離れていかれたら、その友達はその程度だったというだけです。「なんだあいつ。他人の幸せを喜べないなんて、哀れなやつだな!」などと思う人がいたとしても、その感想は言った人自身を不自由にするだけなので、放っておきましょう。というか、そういう風に思うのは「俺はこいつとは違って人格者だぞ」と思ってるからですが、人格者はもっと寛容です。
機械じゃないんだからさあ。いや、機械ですら調子のよしあしがあるわ。あなたも私も、他人の幸せを祝う義務、喜ばしい感情を出す義務はありません。同時に、喜ばしい感情を出さない義務もないので、マジで親友が幸せになってハッピーすぎ!な時は、普通に騒いで泣いてあげてください。
「よかったね。」で終わらせる
「へ〜」は流石にドライすぎじゃね?という場合は、
「お、よかったね。」
くらいにしておきましょう。
演技でもウキウキ嬉しい感を出すと、「やっぱり、この話を喜んでくれているんだな!もっと話そう」と勘違いさせてしまいます。祝われる側も、「(本当はあんまり嬉しくないけど、でも友達の幸福は祝うべきだし、その方が人格者に近づけるから)」みたいな理由付きで「おめでとう!!」とか言われても、嬉しくないでしょう。
だったら、素直に「へ〜、よかったね。」で終わらせておく方が、感情の無理をさせてないんだから、友達にとっても良いわけです。
ただ、嬉しくないからといって、直球で「そんな嫌な話しないでくれる?!」「自慢なの?!」などと相手を責めるのは問題です。相手だって、「嫉妬させてやろう」と悪意を持って話したわけじゃないんですから、いきなりそんな風に否定されたらビックリしてしまいます。
無理して喜ぶこともなく、かといって否定もせず、とりあえずあまり興味がなさそうな態度で聞いておけば、次からその話題が来る確率は下がるでしょう。
自分の幸せにも振り回されない
ここまでは「他人の幸せ」について書きましたが、同様に、自分自身の幸せにも過剰反応する必要はありません。
事実と妄想の区別をちゃんとしよう、異常な期待をするのはやめよう、という話です。
例えば、試験に受かった。やったー!となります。それはいいですが、事実は「ちゃんと勉強したので、試験に受かった」というだけです。
ここで「やっぱり俺は才能がある!この運命で合ってたんだ!この成績をキープして、将来はどこどこに入って…」などと考えるのは、ただの妄想です。現実ではありません。
例えば、好きな人に告白された。嬉しい!それはいいですが、事実は「今、お互いにお互いのことを好きである」というだけです。
一切妄想するなとは言いませんが、「やっぱりこの子と俺は運命なんだ!全てが相性バッチリに違いない!将来はああいう家庭を築いて…」などと考えるのは、やっぱり変な妄想なのです。
妄想しても、まあいいんですが、それが終わったら「ふう…でも、事実は、これだけだな」という所に戻ってきた方がいい。
妄想したまんま、「俺って天才!」「あの子は運命の人!」という精神状態で、いざ実際に授業を受けたりデートしたりすると、「あれ、思ったより素晴らしくないぞ」となってしまいます。
事実としては嬉しいことが起こったのに、それを勝手に妄想して、異常に期待をすることで、次に起こることを自分で「がっかり」に変えてしまっています。感情のジェットコースターを勝手に建設して、登って落ちて一人で騒いでいます。疲れますし、それで最終的に残る感情は「がっかり」です。
だから、他人の幸せに「へ〜、よかったね。」と言うように、自分に起こった幸福に対しても「ほーん、やったね。」くらいにしておいて、やたらと期待をしすぎないことです。
自分にも、他人にも、感情のジェットコースターを建設しないようにする。「期待をしすぎない」といっても、「どうせダメだし、期待しないでおこう」と心に保険をかけておくのとは少し違います。「常に“今”にいよう」という話です。ここで哲学、瞑想の話に繋がります。
強烈に「今」にいる時は、「未来」を妄想しません。
今、今、今…
いつでも、「今」の連続です。今起こったことに対して、今対処する。その繰り返しです。
湧き出てくる感情、または期待される感情…これらに振り回されることなく、素直に、「今この現実」に立っていたいですね。