このあいだ、友人がメロディックスピードメタルに興味があるということで、一緒にTwilight Forceのライブ(Evoken Fest 2017)を見に行きました。私は普段主にメロディックデスメタルを聴いているんで、そこまでメロスピには詳しくないのですが、友人のメタルライブ初参戦ということで付き添いました。
そしたら、彼女の好きなTwilight Forceに私が興味を持ってしまいました。いやー、これだから面白いですね。
↓ちなみにこんなバンドです。ゲーム音楽やアニソンが好きな人には超おすすめ。
じゃ、さっそく本題を書いていきますよ。
自我という番犬
例えば、過去に特定の人から嫌がらせを受けていたとします。そこで「私」は、「嫌だなあ」と感じ、それで「あの人は嫌な人だ」と定義するわけです。
ここで「嫌だなあ!」と感じているのは、誰でしょうか。「私」でしょうか?
そう見せかけて、本当は、自我ですね。
「自我」と「私」は、ちょっと違います。理想形は「私が、自我をコントロールする」ですが、何もしなければ大体「自我が、私をコントロールする」状態になっています。自我のコントロールは、瞑想で修得できます。
自我をぐっすり眠らせている状態だと、一般的に嫌なことがあっても「あらあら、しょうがないね」程度にしか思いません。体験済みです。
では、自我は何故わざわざ「嫌だなあ!」と感じて、私たちを嫌な気持ちにしてくるのでしょうか?
それは、過去の記憶に基づいて、「嫌なこと」「嫌な人」から私たちを守ろうとしてくれてるんですね。過去にああいう 嫌なこと があった。もう二度とあんな 嫌な思い はしたくない。だから、 嫌な人 から距離を置こう。距離を置くためには、注意信号を送らないといけない、じゃあ 嫌だという気持ち を出そう。…ということです。
自我は、精神の番犬として、私たちの健康を守ろうとしてくれています。…が、あまり頭は良くないようです。
パブロフの番犬
自我は感度の良い番犬なのですが、ちょっと単純すぎるところがあります。
すなわち、相手が武器を持っていなかろうが、自分から遠いところを歩いていようが、とにかく視界に入ったらドンドン反応してしまう。「番犬である以上、俺はある程度戦えるぞ。だからムダに吠えず、今は眺めておく」ということは、番犬自身にはできない。
遠くに見えただけで、勝手に「見えた!じゃあ攻撃してくるぞ!!」と、ムダに戦闘態勢を取ってしまいます。視界に入ったら即反応。パブロフの犬と同じです。ばか犬です。
パブロフの犬は「Aが出たら、イコールBが出ることだぞ」と覚えて、Aに対してBが出た時の反応をしてしまうのです。このばか番犬も、「あいつには嫌なことをされた。だから、あいつには気をつけよう」というのを一生懸命覚え込んで、「あいつは嫌だ!嫌だ嫌だ!!」に変えてしまっています。
こうなると、困るのは誰でしょう?そう、「私」ですね。何も起こっていないのに、自分が見張りをさせている、味方のはずの番犬に嫌な気持ちにさせられています。
悪人と悪事の関係
それから、これにも触れておきます。
嫌な人を見たり、話題に上がったりした時、嫌な気持ちになる。その人が「嫌な人だから」…と思いますが、実際それは「自分で作った定義」です。
嫌なこと自体は、過去の出来事です。もう自分の前には出てきません。そしてその「嫌な人」は、24時間365日必ず「嫌なこと」をしているわけでもありません。
「あいつが嫌だ嫌だ」と何度も思う気持ちは、自我が勝手に思い出したり想像したりして作っているのです。番犬が過剰反応しているだけで、実際は他の通行人と同じ、気にさえしなければただの人です。
「嫌なことをされたから、嫌いだ」「悪いことをしたから、悪人なんだ」と最初は思うのですが、そのうち「嫌いだから、嫌なことをされるんだ」「悪人だから、悪いことをするんだ」とごっちゃになってきます。
悪人と悪事、どっちが先か?
もちろん、悪事が先ですね。「悪事を働いた人」が「悪人」であって、「悪人のすることは悪いこと」ではない。暴走族が老人に席を譲った時に「悪人がやったから、席を譲るのも悪いこと」にはなりません。
それと同じで、「嫌なことをされたから、あいつとは距離を置こう」はいいのですが、そのうち気付かぬ間に「あいつは嫌なやつだから、もう関わらない」になったりするのです。これは対処法ではあれど、真実ではありません。
このブログで何度も書いているように、「“私” はいない」。「“私” が “私として” 在ること」を決定づける絶対的なコアなど、どこにも存在しない。同様に「“あの嫌いな奴” もいない」のです。「嫌な奴」というコアは、ありません。それは経験則、もっと言えば色眼鏡に過ぎない。信憑性はありますし、防衛手段としては合っているのですが、性格も立場も変化します。固定されているものは無いです。
人間関係なので、「いることにしないと成り立たなくなる」、だから便宜上「ああいう奴」と言いますが、本当は「あの嫌いな奴」など、いません。みんな仮象です。だから、その思い込みさえなくせば、せめて減らせば、気分が楽になります。いろいろ書いてきましたが、もっとも肝心なのはそこです。
番犬をしつけよう
気分を楽にするため、愛しいばか犬に「本当は大丈夫だよ」と教えてあげましょう。
さて、ここで想像してみてください。
あなたの精神の入り口には、番犬がいます。普段は、小屋の中で寝そべりながら見張っています。もっと精神の深いところには、あなたがいて、遠くから番犬を眺めています。
私は犬なら笑顔の可愛いコーギーとイケメン強面なハスキーが好きですが、ここは闇の犬といえば「ケルベロス」にしておきます。ちなみに私は犬と猫なら犬派ですが、最強は鳥です。
で、「自我こそが自分だ」と思っている人の場合、その犬には首輪や鎖はついていません。だから、嫌なことがあったりすると番犬が飛んで行ってしまって、自分はそれを捕まえに行かなきゃいけない、つまり自我に振り回されることになります。自分という精神の主人が感情を追いかけて、いるべき場所(精神の天守)を離れてしまうから、理性的判断ができなくなってしまう、ということです。
一方「自我に振り回されてるぞ」と気づいている人の犬には、鎖がついてます。あなた自身が、ちゃんと鎖を付けたのです。嫌なことがあって、感情が動いて犬が「ガッシャン!!」と前のめりにはなっても、それを眺める私自身は犬を追いかけなくて済みます(鎖は毎日手入れ…瞑想しないと、強い感情には引きちぎられる)。
こういう風景の中で、もし番犬が頻繁にガッシャンガッシャンやっている、というなら、「何かいるのか?」と聞きに行きましょう。
「おれ、あの いやなやつが みえたんだ!しゅじん、いやだろ。だから、たいへんだと おもって・・・・」とか言います(喋る犬)。
ケルベロスだったら、「あの愚か者が視界に入った。目障りだろう。主人が望むなら、奴を抹殺する準備はいつでもできている」とかですかねぇ(中二病)(流石に自我で相手は殺せない)
で、そしたら、「いつもご苦労。理由は分かった。でもな、お前は強いんだ。本当に強い奴は、どっしり構えているものさ。いざとなれば援軍(=建設的な方法を考える冷静な頭)も送る。だから、あいつが見えても、こっちに来るまでは眺めておけばいいんだよ」
と教えてあげましょう。毎回ガッシャンガッシャンやると、番犬も大変でしょうから、休ませてあげましょう。ばか犬なので、すぐ完璧にはできないでしょうが、何度でも教えこめばいいのです。
自分は、自分が思っているよりも強いのです。だって、その「嫌なこと」の実体験を乗り越えてるんですからね。