たまに老後について考える。夫が先に楽に逝ったあと、寝ている間に逝けたらいいが、そうなる確率はさほど高くない。ガンや脳卒中などの病気になって、病院で人生を終えるかもしれない。
通り魔や交通事故に遭う可能性もあるし、震災や戦争に巻き込まれるのも十分ありえるので、そもそも老後が来ないかもしれない。もしそうなら、今考えている老後のことは意味がない。長生きリスクという言葉の通りだ。
祖父は90歳で突然体調を崩し、3ヶ月ほどで亡くなった。要介護5の時間が3ヶ月で逝けるならまだマシだが、何年も続くとなると「生きる苦しみ」はかなり重くなってくるだろう。
もし自分が何らかの病気や怪我で、今のような自由を失ったときに、どの段階から「こんなに〇〇なら、死んだ方がマシ」と思うだろうか?今回はそれについて考えてみる。当たり前だがこれは私の感覚を書くだけだから、他人がどう感じて何を望むかとは関係ない。
圧倒的痛み
ガンなどでひたすら痛みが続く場合、「もう殺してくれ」と考える可能性はあるだろう。これは実際その痛みに晒されてみないと「どこからが死んだ方がマシか」を事前には分かりようがないし、文章に表現しようもないので、特に線引きや分析ができず、よって深掘りしない。
自力で生活不能になる
食事や風呂、トイレなどが自力でできなくなったら、それは大変いやな体験だと思われる。本人も介護者もつらいだろう。ただ私の場合「これなら死んだ方がマシ」のラインは越えていない。死んだ方がマシなのは、次のような場合である。
意思表示ができなくなる
痛いとか痒いとかの体調面もそうだが、自分が何を考えているか・何を感じたかを一切表現できなくなったら、私はもう生きていても意味がないと感じるのではないか。32歳の現時点では、そう思う。
自分が子供だった頃、大人たちが私の気持ちや考えを代弁しようとするのが大変不愉快だった。肺炎で入院した5歳の時、点滴の針を刺すのが怖くて泣いていたら看護師さんは「苦しいね」と言ってきたのだが、「違う!私は注射の針が嫌で泣いている!」と即座に反論できない自分の弱さにますます泣いていた。
介護者は「キレイになったね」「よかったね」などと話しかけるものだが、一切意思表示ができない状態でこんな声かけをされ続けたら、私の脳内は再び怒りや絶望に染まってしまうに違いない。それならばロボットが無言でやってくれる方が、誤った代弁をされない分、はるかに良い。
絵を描いたり、文章を書いたり、会話をしたりして、「自分の考え・自分の感覚・自分なりの美観」などを表現することが、私の最も根本的な「生きる意味」なのだろう。
手や声が使えれば一番いいが、もしそれらが使えなくても、何らかの手段で文字入力ができればよい。視線を利用して1文字ずつ字を打っていく機械があるが、あれを使用できるのなら、私はまだ生きる意味を見出すだろう。将来的には頭に電極をつけて喋れる機械ができるかもしれない。そうなったら私の「死んだ方がマシ」はかなり遠ざかることになる。
そういう意味では、私が赤ちゃんの頃から絵を描いたり、作文に無駄に全力を出したり、ブログを10年以上続けたり、デザインを仕事にしているのは、かなり必然的である。
とはいえ、「私の意思表示」が重要なのは究極的には私だけなので、私を生かし続けて能書きを垂れさせるメリットが医療予算に見合わなければ、殺されるのは致し方ない。とりあえず夫よりも後に死にたいものである。
