最近は、noteやYouTubeを眺めていると「明らかに生成AIで出力したと分かる文章」が多すぎて辟易する。
AIを使っていてもそうと分からない程度に高品質なら別に良いのだが、最終的な文章が「平均的な生成AIらしい文章」になっているのが多すぎる。ほぼそのまんま出してくるということは、本人にはAIで出させた文章に修正を入れるだけの文章力・発想力・構成力・情報収集力(どうAIに指示すればマシな文が出てくるかを調べる)、そして審美眼が無いことを意味する。
漫画のキャラクターが作者の頭のよさを超えられないように、AIを使って何かを作っても、出力した人間に審美眼がなければ、「雑に使われたAIのレベル」にしかならない。AI頼りの人間の文章力や構成力はそれまでなのだから、AI頼りの文章群は「内容が低品質で、表面的にはAIらしい」ものとなる。
AIが無くても余裕で長文を書ける人間が、補助的にAIを使って修正をガッツリ入れたものであれば、あからさまな「GPTしぐさ」はまず排除されている。
GPTしぐさ四天王(2026.01現在)
- “”
- ──
- 単なる〇〇ではなく
- 静かに〇〇される
ChatGPTが普及する前にはみられなかった表現が爆増しており、まるで「ご担当者様」から始まるテンプレ営業メールのようである。だから営業メールのように「こんな明らかな違和感を感知できないような人間の文章か」と思って読むべきなのだ。
こういうのに対して「GPTしぐさやめてね」「ま〜た英語を直訳してるよw」と騒ぐのはまぁまぁ楽しいところもあるが、低品質なものは摂取しすぎると頭に良くない(正面から大量摂取しすぎると本当に吐き気がしてくる)ので、もはや文体を無視して内容だけ拾う「対AIの読み方」をし始めている。
ふ〜、前置きはこんなところにしよう。
ことビジネスにおいては「質より量」とも言われるが、人生というもの自体の満足度を考えるときには、やはり「質」の方が大事である。
特に、商品や論の質を、ブランド名や「〇〇さんがお勧めしている・言っている」などの「お墨付き」無しで見定める力が、たいへん重要になってくる。
見定める力とは「多数決を取ったときにどっちが勝つか当てる」ではなく「自分にとってピンと来る感覚を見逃さず・逃がさない、心の動体視力と握力」である。
みんながどうかは関係なく、自分が「うおー!カッケェ!!」「ヤバすぎる!」あるいは「おー、これは便利!」「言われてみれば、まったくその通りだな!」などの感動を覚えたとき、その感覚をしっかり捕まえて「ほー、自分はこういうのが好きなんだな。」「これが“便利”という感覚なんだ。」と確認・保存(記憶)・更新するのが大事だ。
社会生活をしていれば、100%自分の好きなスタイルだけで生きていくことはできないが、それでも「本当は自分はあのスタイルが好きなのだ」「今しているスタイルは違うのだ」と分かっているかどうかは、たいへん大きな違いである。
自分の感覚をいちいち捉えて掴んで眺めて生活していると、「便利さ」「美しさ」「筋が通っている」、あるいは逆に「見てくれだけで使えない」「なんか流行ってるが普通に論理破綻している」など、自分の中で「美」や「理」の判断軸ができてくる。これが、タイトルの審美眼と審理眼である。(審“理”眼は造語)
私が自分の人生に非常に満足しているのは、「自分なりの審美眼・審理眼」をしっかり確立してきたからに違いない。人生の序盤は軸が全然育っておらず、苦痛の多い期間だったが、20代後半〜30歳くらいになると軸が固まり始めてきた。ひたすら打ち続けてきた「点」が、線となり面となったようだ。
審美眼・審理眼が育ってくると、流行やイメージによって不要なものを買うことが無くなる。ほとんど全ての購入物に対して「買った理由」を言えるようになる。
例:生地の厚みがちょうど良く、試着したらサイズが合っていて、シルエットも中性的で癖がなく、色味や質感としても今持っている洋服と合わせることができ、オンオフ両用でき、レビューで洗濯耐性も評価されていたから。
服飾は価格に対して高見えされることが多い。お弁当やお菓子などに関しても「原価率が高いもの」を選べている可能性があり(実際のところは分からないけどね)、コスト的に厳しいからか商品自体が無くなったり内容が改悪されたりする(困る)。稀に予測が外れて買ったものが不要になってしまっても、稀なので次からは同じ過ちを回避できる。
これは最小のコスト(金額)で最大の価値(良いものを長く使えて満足)が得られることを意味する。流行が変わるたびに服や自己啓発書を買い漁るような生き方はコスパが悪いのである。
私は全然有名でも金持ちでもないが、仮に生まれ変わりがあるとしても(無いけど)、私以外には生まれたくない。ダヴィンチにもアインシュタインにも大谷翔平にもなりたくない。どんな偉人にも欠けているもの、それは私自身の見ている心象風景である。自分はいないが、しかし自分でなければ意味がないのだ。
私にとっては物心ついた時からの「当たり前の方向性」だったが、おそらく多くの人にとって、自分軸を持つことはかなり難しいのだろう。そうでなければ、流行は存在しないのだから。しかし、もし一部でもできそうならば、今からでも自分なりの審美眼・審理眼を育てていくことこそが、人生への満足を高めることに繋がると言いたい。
