このあいだ仕事仲間と交流会に行ったのだが、その移動途中に「飲み会って楽しいと思うほうですか?」と聞いてみた。行きと帰りで一人ずつ。2人とも陽キャではないが、インキャというほど内向きでもない。
それで、返ってきた答えは2人とも「まぁ雰囲気は楽しいですかね」であった。酒を飲めなくても話を聞くのは楽しいとか、あまり大人数なのは嫌だけど雰囲気は悪くない、といった感じである。
二人とも話しやすい人なので、「苦手なんですか?」と聞かれて「うーん実は、苦手と言えば苦手ですねぇ」とバカ正直に返しておいた。
それで気付いたが、私が飲み会を楽しくないと感じるのは、感情伝播反応がないからではなかろうか?
いや、これはかなり確信度合いが強い。そうに違いない!
周囲の人間が笑顔である、楽しそうである、盛り上がっていることが「理解」できても、その感情や雰囲気が自分の中に流れ込んではこないのである。
だから、実際に話の内容や一発ネタなど「それ自体」が私にとって楽しければ、その瞬間は楽しい。しかし、その楽しい会話や芸が終わったら、私にとっての楽しさはそこで終わりなので、それ以降はまた何か「それ自体が私にとって楽しいこと」が起きない限り、特に楽しくはなくなる。
「楽しくない=つまらない」ではなく「ふつう」に戻るだけだが、飲み会はかなりうるさいので、そこで不愉快に感じがちであり、結果的には飲み会が好きではなくなる。
これを夫に話したら「話の内容がくだらなくても、みんなが楽しそうなら『良かった良かった』みたいな感じになるので、楽しさはある。感情が伝わってこないとしたら、確かに相当居心地が違うと思う」と言っていた。同レベルのインキャであっても、感情伝播反応の有無で飲み会への印象はかなり変わってくるようだ。
飲み会に限らず、友人との普通の会話や、ライブやテーマパークなどのイベントでも、周囲の感情は伝わってこない。自分だけが周囲の「感情的な空気のかたまり」から切り離されているように感じる(それは分かる)が、それを「おや?」とは思っても、寂しい・中に入りたいとは思わないのが、不思議なところである。
昔、祖母が「みんなで食べると美味しいね」と言ったときに「一人で食べる方が味がよくわかって美味しい」と言ったら、エーッという反応になった(当たり前)のだが、これも感情伝播反応がないのが原因であろう。みんなの楽しそうな雰囲気は、私の頭で認識することはできても、腹に入ってはこないのだ。ちなみに、これを言って引かれているときに伯父は「そうだよね」と言ってくれたので、伯父はいい人である。
これまでの人生でも、周囲が盛り上がっているときに一人だけ(?)テンションが普通なので「なんだこいつ?」みたいになることは多々あった。そう思われても、勝手に感情が流れ込んではこないのだから、仕方がない。事実として、私の感情に影響を与えるのは「私がどう感じるか」だけなのだ。
だから、私が定期的に会っている友人などは、私が実際に楽しいと感じるから会いたいのである。ライブは目当てのアーティストの演奏を聴きたいから行くし、テーマパークは乗りたいアトラクションがあるから行く。レストランは食事や景色自体を味わいに行く。実にシンプルである。
こうなると、前回の記事で主張した「審美眼と審理眼」の涵養については、感情伝播反応がない故に、周囲の感情に影響されず、独自の感性が育みやすいという見方もできる。自分軸というのも、感情伝播がないほうが保ちやすいのだろう。努力や経験というより、神経細胞の特徴によって方向づけられる価値観もあるに違いない。
