「家族は大切」の大前提について

小学生の頃「一番大切なものは何か?」とクラスで話し合った記憶がある。当時の私は「家族」と答えたが、おそらく子供にしてはかなりシビアに捉えていて「いや、普通に考えて親がいなければ自分は生きていけないんだから、現実的に家族以外の答えはありえないでしょ」というニュアンスであった。友達とかゲームとかは自分を養ってはくれないのだ。「大切」と「必要」の意味を分離できていなかったとも言える。

20歳くらいまではその理由によって「家族が一番大事だ」と思っていたのだが、まともにアルバイトができるようになったら「Children Of Bodomが一番大事」「親友が一番大事」みたいな感覚になっていった。遅れてきた青春とはこの事である。

そして今は、大人になってから知り合った人間と同じ家に住んでおり「夫が一番大事だ」と思っている。それと同時に「真理が最も重要」「芸術のない人生に意味なし」と感じてもいる。

何が言いたいかというと、生まれた時から既にあった「親の家」の家族と、自分が大人になってから作り上げた「自分の家」の家族は、同じ「家族」という言葉でも全く違うということだ。

この大前提が共有されないまま「“家族”が大事」と同一単語で括られているのは不思議である。実際のところ、親の家と自分の家の「人生における重さ」がイコールだと感じている人は、そこまで多くないのではないか?

自分の家の家族とは、自分の価値観や人生の道のりが反映されており、(自由意志が無いとはいえ)自力で獲得した、いわば「資産」である。これまでの人生の結晶で、まさしくこれが「失うもの」だ。

対する親の家の家族とは、生まれた時から既にあったもの、つまり「ゼロ地点」である。家庭環境のよしあしはあるが、各人それぞれの人生においての位置付けとしては「ゼロ」だ。親の人生で構築された、親のものであって、自分が主体で作り上げたものではない。

だから、同じ「家族」・同じ一親等であっても、親の家族と自分の家族では、人生における重みが全然違うのだ。

まぁ、私は幼少期ほど無力感が強くて人生がしんどかった(幼児期の万能感なし)という変わった感性だから、「親の家」と「自分の家」の乖離が普通より大きいのかもしれない。

そんなわけなので、「家族が大切だとはそこまで思えない」と悩む(?)人も、「自分の家族」を持った場合は、その人たちを大切だと思えるかもしれない。という話であった。