アート分野における賞やコンテストの限界

先日「小中学生が考えたキャラクターの公募」に運営側として一次投票をする機会があり、アート分野における「賞」や「コンテスト」の構造的な限界を感じたので記事にしておく。

アイデアの良さと絵の上手さは別

まず前提として、アイデアが素晴らしいのと画力や造形力などが高いのは別である。無論、両方いいのもあるし、両方しょぼいのもあるが、「一見何が描かれているのか分からないが、よく見たら面白いモチーフ」とか「イラストは大変うまいが、あまりにもテーマそのまんますぎる」とかも、時々ある。

コンテストによっては、受賞した絵がそのままポスターになったり展示されるパターンもある。この場合は基礎画力がなければ「足切り」されてしまうだろう。

しかし今回の公募は、最終的な受賞作をプロが清書することが決まっていたので、私はアイデアを重視して投票した。最低限何が描かれているか分かれば、筆致やバランスは最終的にプロの手によって調整されるので、原稿がへたっぴでも問題にならない。

専門卒の私がこんな喩えをするのも変な話だが、今回の投票では、学歴で足切りできない中小企業が履歴書を読む時のように「ぱっと見、凡庸なものの中から小さな可能性を見つけるような」見方をする必要があった。

何百個もある案の中で「このモチーフはこの子しか描いていないけど、説得力はある」「普通はこうなるところ、逆の方向性で攻めていて面白い」と感心して投票した案がいくつかあったが、いずれも選考が進む中で落選してしまった。

「最優秀賞」と「特別賞・佳作」の大きな違い

「最も高い山は富士山だが、二番目に高い山はあまり知られていない」とはよく言うが、コンテストにおいても「最優秀賞」と「その他の賞」には大きな隔たりがある。ホームページやイベントで大きく発表されるのは最優秀賞だけであり、優秀賞・佳作・審査員特別賞などは興味がある人しか見ない。

「1つだけ決め、他を切る」のは心理的抵抗が大きい。ホームページやポスターなどに大きく載るから、コンテスト団体のイメージにも直結してくる。すると、あまりに尖った作品は最優秀賞にしづらい。さらに、投票者が多いほど「投票者の審美眼の特徴」が打ち消されていき、結果、最優秀賞や優秀賞は「無難な多数決」のようになる。最優秀賞の作品が必ず無難とは言わないが、傾向としてニッチなものよりも大衆受けする作品が構造上選ばれやすい。

逆に、佳作や審査員特別賞には、アイデア賞とか変な作品を入れやすい。

「そのコンテスト自体の方向性」への影響

上の段と重なる部分もあるが、特に継続的に応募を募るコンテストの場合は「そのコンテスト自体のイメージ=最優秀賞の積み重ね」にならざるを得ない。

最優秀賞はどうしても「こんな作品を求めています」というメッセージになってしまうのだ。「こんな」とは、表面上の色使いやモチーフというより、描くにあたっての動機や構成論理などの文脈である。エッセイコンテストで上に行くためには家族の死亡イベントが有利とか、ゆるキャラの公募では地元民にバフがかかるのと似ている。

ただただ好きなものを追っている作品

ところで、作品一覧の中には「電車のキャラ」があった。一枚の紙に2つも描いてあり、筆致からも熱意が感じられる。色塗りも丁寧に仕上げてある。しかし、募集要項(テーマ)に全くマッチしていないので投票はできないし、賞を取ることもないだろう。

実際のところは分からないが、私は「この子はおそらく何がテーマでも、いつでもどこでも毎回、電車の絵を描いているのだろう」と予測する。

幼少期に魚の絵ばかり描いていたさかなクンが大学教授になった例は有名である。このような「興味が深すぎ・狭すぎ」な子に対して、私は「ぜひそのままでいてほしい」と強く思う。今回投票はできず、落選になってしまうのだが、気にせずに今後も電車の絵を描き続けてもらって、将来は鉄道会社の車掌や整備士、あるいは車体や内装のデザイナーとか、都市計画を考える仕事などに就けば、皆が幸せなのである。

こういった「好きなものをひたすら作っている人」は、どんなに上手くてもテーマを無視したり独自解釈をしたりで落選すると思われるが、そういう人は賞を取っていなくても、いやむしろ賞を取っていないことが「一種の才能のあらわれ」なのである。