アート自体の感覚・アートとは何か、それをがっちりと掴むことができたので記事を書く。
数年前は上記記事の考えだったが、今はかなり違う。今は、デザイン的な感覚とアート的な感覚の違いをはっきり捉えたことで、アートを仕事にしても問題ないことがわかった。
ただし、デザイン的な感覚とアート的な感覚を完全に把握していなければ、アートを仕事にすることにはリスクがある。それも含めて、色々と分かったのだ。
アート自体の感覚
一言でいうと「理由のない直感的な確信」である。理由はないが、何故か、ここに線を引くべきである!理論上はおかしいが、何故か、この色をここに置くべきである!…といった、そうしないと強い違和感が起こるような、強迫性障害の発作に近い感覚が、断続的に起こり続ける(私は若い頃に強迫性障害を発症したことがある)。あるいは、強迫観念まで行かずとも「自分にとっては、非常にあたりまえの感覚」とも言える。「なんとなくこっちかな?」程度から「絶対にこうだ」まで、確信度合いはグラデーションがある。漫画家や彫刻家で「描くべき線が見えているから、それをなぞる」「彫るべきところが見えている」みたいな話を聞いたことがあるが、まさにその現象と一致する。
「テクニック本に書いてあったから、そうする」とか「〇〇理論によれば、この組み合わせが美しいので、そうする」のような考え、あるいは「ターゲットは〇〇歳の男性だから△△な表現が望ましい」のような意図、これらを「作為」と呼ぶ。作為、作為、作為。私は本業では作為をし続けている。
「作為」こそが、デザインとアートを分かつ。デザインとは作為そのものであり、「アート自体」とは作為のない現象である。
直感に任せる
というわけで、よいアートをやるコツは、作為を捨て、直感に任せることだ。
例えば色塗りの途中で「いや、流石にここは常識的に黄色だろう」といった「作為」が聞こえてきても無視し、直感という名の強迫観念に従う。SNSに溢れるナヨナヨしたテクニックや理論は無視して、自分の中から力強く出てくる感覚に従う。
とはいえ「リンゴを想像してはいけない」と言われたらリンゴを想像してしまうように、「作為をしない」のは通常では難しい。しかし解決策は存外にカンタンで、メタルなど好きな曲を聴いて、その曲に集中するよう意識すれば良い。作為が出てくる余白を「曲に対する感動」や「作曲者の才能に対する賞賛」さらにそこから出てくる「アートとは何か、などの哲学的思考」で埋めてしまえばいい。
上記のようにすれば、絵は自動運転で描くことができる。ただ、自動運転でまともに描くためには、基礎ができている必要がある。デッサンや平面構成などがそれなりに身に付いており、ある程度は無意識に描けるようになっていないと、自動運転した結果はめちゃくちゃになるはずである。
一方、ものすごく作為的な作品でアーティスト扱いされている人もたくさんいる。というか、そっちの方が多く見える。アートを仕事にしても問題ないとは言ったが、やはり純粋なアートとは別枠のライスワーク(作為的な作品作りを含む)がないと、なかなか生活費をかけて腹を括るのは難しいと思う。
直感は「思い付き」とは似て非なるものだ。「思い付こうとして、思いつく」のではなく、シームレスに遅延なしの連続で直感し続ける。といっても、直感で描いている割合が100%には中々ならない。今の私の場合、調子が良くて85%くらいだ。慣れれば更に割合が高まるのかもしれない。
昔は両方やらなきゃダメだと思っていた
昔はというか、実際のところ「ちょっと前までは」だが、理論や常識などの「作為」と、自分の中のアート感覚の両方を融合しなければダメなのだと思い込んでいた。それはそれで大変チャレンジングで悪くはないのだが、作為よりもアートの方がよほど貴重であり、属人性が高くて再現性はなく、真理に近い。学習すればほとんど誰でも使える作為のために、珍しいアートを変形するのは勿体無いのだ。
「作為」を無視して良いのなら、ずいぶん楽になる。私にとって上述したアート感覚とは、あまりにも馴染み深い。物心ついた頃から一体化していた「足」のようなものだ。2歳まで立たなかった私ですら、うまく歩くためには「まず右太腿の筋肉を縮めて」などと考えてはいけない。作為という説明書を読まなければ自然に歩けるということだ。
この「作為・無作為」の感覚は、デザインの仕事をしてきたからこそ掴めたのだと思う。
己の能力を正面から見つめる勇気
一年前の私なら、こんな「自分は芸術家である!」と明言するような記事は書かなかった、いや書けなかったに違いない。
私のブログにリア友以外の閲覧者がどれだけいるのか知らないが、お気付きの通り、今年5月頃から当ブログの投稿頻度がかなり上がっている。これは今年の5月頃、ある種の「諦め」がついたから、遠慮なく思いついたことを開陳し始めたのである。
その「諦め」とは、「自分は、自分で思っているよりも、かなり思考力や創造性がある」という気付き、言い換えると「おそらく殆どの人間は、私の言っていることを真の意味では理解できない」という現実である。
今でもそうなのだが、私には昔から「私が理解できることは、みんな知識や経験さえ得れば普通にわかるはず」という根源的な感覚がある。人は全員、私と同じくらいの推論力やアイデア力や知的誠実さがあると無意識に想定している。これまでの人生で「そうではない」ことがわかる経験は無数にしてきたはずなのに、不思議なことに今でも実際そう感じている。
それで今年の5月よりも前は、その感覚に対して疑いすら持っていなかった。誰かがおかしなことを言っていても「今は調子が悪いだけで、まともな時はちゃんと思考できるはず」「もっと社会経験積めばわかるはず」みたいな感じで、相手の「足りてなさ」を勝手に擁護していた。寛容なのか鬼畜なのかよくわからない処理である。
そんな前提を敷いていたので、自分と同等に思考力のある読者やインターネット匿名マンたちに辛辣なツッコミを入れられる(同類なら“辛辣なツッコミ”はしないのだが)可能性を真剣に考え、その結果、記事を書いている途中や書く前の思い付き段階で自己論駁して、公開を取りやめたり書くのをやめたりしていたわけである。
しかし「いや、多分ほとんどの人は、そもそも何言ってるか理解できてない」と思い至ったので、どうせ理解されないなら自由に書いていいや、むしろ極少の同類たち(日常生活で“共感”できることが少ない)のためにも書いた方が良い、と開き直った。
自分は頭がいいとか、アーティストであるとかは、公言することに「リスク」がある。頭が悪いとかアーティストではないという公言はノーリスクなのに、だ。賢者が愚者を名乗るのは許されるが、愚者が賢者を名乗るのは許されない。愚者が愚者を名乗るのは許されるのに、賢者が賢者を名乗ることは(何らかのお墨付きがない限り)許されない。要するに、事実かどうかを問わず、賢者を自称することがリスクなのだ。
しかし私が優先したいのは、事実のほうである。事実に基づいた自己認識が制限されていると、正しく自己理解・他者理解ができない。自己理解はしておいた方が、自分にとっても周囲にとっても有益である。自分の思考力などから目を逸らさず、過小評価せず、正面から見て実態を捉えなければならない。それを取り立ててアピールする必要はない(社会的にメリットがない)のだが、実際に頭がいい人が「自分は頭がいいんだなぁ」と自覚すること自体は、あまり頭が良くない人にとっても「優しいこと」に違いない。
