今年の総括-2025

今年は、仕事では色々なことに挑戦した年となり、プライベートというか精神面でも大きな変化があった。このブログでは仕事の話はしないことにしているので、精神面についてだけ書こうと思う。といっても既にブログ記事であらかた書いてしまっているので、あっさりした記事になるだろう。

真理とアート

こちらの過去記事において、私は「こだわり」=「未成年の感覚」=「才能」と表現した。 https://ryoma169.com/sense-of-young/ し…
ryoma169.com
アート自体の感覚・アートとは何か、それをがっちりと掴むことができたので記事を書く。 https://ryoma169.com/art-or-design/ 数年…
ryoma169.com

まず、このあいだの2記事にほとんど書いてあるが、私の人生における一大テーマ「芸術と安穏は両立できるのか?」に一定の答えを見出すことができた。芸術的才能には「こだわり」と「自動出力」の2種類があり、前者は平和な精神と両立できなさそうだが、後者の才能は両立可能である。

私は子供の時から「世界の真理を知りたい」と(そう言語化はしていなかったが、感覚としては)感じており、「おそらくそれを知るのは60歳を過ぎてからだろう」と予測していたが、20代前半で哲学的な真理には到達してしまった。

次に出てきたテーマが「芸術と安穏の両立可否」で、これはもう一生をかけて検証することだろうと思っていたのだが、なんか今年わかってしまった。

今は「真理が分かってよかった。これで死ぬとき後悔せずに済む」と思っている。今後これらの見解、哲学的真理や芸術的感覚の捉え方が、絶対に変わらないとは断言できない。しかし、かなりの強度で(論理的な納得ではなく)「無意識レベルの確信」をしているので、一旦この認識で行っていい感じはある。てか間違ってても誰にもなんの関係もないしな。

理解されていないことの理解

芸術と安穏の両立可否にならんで衝撃的だった気づきが「自分は想像を遥かに超えて、他者から理解されていない」ことである。気持ちや個性を分かってくれない的な意味ではなく、話の内容が正確に理解されていないのだ。

仕事や趣味や旅行など一般的な話なら大丈夫なのだが、哲学や芸術の観念的・感覚的な領域になった途端に通じなくなる。言語化が難しい話だから通じにくいのはあるが、通じる人(激レア)には完全に通じるので、私の説明能力だけが原因ではない。

それまでは「みんなきっと、なんとなくは理解しているはず」と呑気に感じていたのだが、ほとんどの人が全然内容を理解していないことに気がついた。みんな、哲学を道具として捉えているし、真理に興味がないし、芸術的感覚の絶対性を感じていないみたいだし、自由意志の有無についてなど考えたくないように見える。

これに気付いてしばらくの間は、少し「がっかり」した気分が続いた。

このサイトの必要性を再確認

これらの理解をマネタイズしたり広める気はないし、どうせ99%以上の人間は話しても内容を理解できないので、私は変わらずこのブログ内でのみ考えを書き続けるだけである。

伝える気がないのになぜ書くのかというと、「このブログになんでも書けるぞ!」という安心感によって、「本音をぐっと堪えて社会に合わせる」ことができるからだ。

どこか安全な場所に思想を書き出しておかないと、思想を覚えていないと勿体ない気がして、頭の中にキープされ続ける。すると、意図せず・場所を選ばず、思想が中途半端な小出しになってしまう。こうなると私は勘違いされるだけ・他人は理解できない話をされるだけで誰も得しないので、こうして安全な場所に(小出しではなく)しっかりと書く必要があるのだ。

公開する理由が薄いが、非公開にする理由も特にない。このサイトを読んで「同類だ!」と喜ぶ人も、極々わずかながら居るはずだ。