もうひとつの「才能」

こちらの過去記事において、私は「こだわり」=「未成年の感覚」=「才能」と表現した。

大人になる、とはどういうことだろう? 今の私が定義するなら、「こだわりを捨てられること」だと考える。上の言うことを聞く。そうする理由は、仕事をスムーズに進めるた…
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しかし最近、自分の仕事に取り組む中で、「こだわり」とは異なる、もう一種類の「才能」を発見したので書き記す。そしておそらく、こちらがより本質的で、より再現性がなく、誰にもコントロールできない「真の才能」である。

自分の意思ではない“何か”による自動出力

このあいだ描いていたのは、友人のデスメタルバンドのジャケットアートだ。報酬をもらって描いたので、仕事の絵である。

※まだバンドから発表されていないので、ここに絵を載せることはできない。発表されたら貼る予定。

その絵を描いているとき、普段のグラフィックデザインの仕事とは異なる感覚だった。いつもの仕事では、ほとんど自分の意識のコントロール下でデザインやイラストが作られていくのだが、その絵を描いているときは自分の意識よりも「自分ではない“何か”による自動出力」の割合の方が大きかったのである。

べつに意識が飛んでいるとか、酔っ払っているわけではない(そもそも下戸だから飲めない)のだが、シラフのはっきりした意識の中、なぜかペン先が勝手にいい感じに動いて「ここにこんな線を運筆だな」と即時に直観できるのだ。100%すべての線や点がそうではなく、割合としては70%ぐらいだろうか。時々、集中力が切れて「ださい線」を引いたとき、“何か”が去っていったことがわかる。

この「自動出力」は、自分の意思ではコントロール不能だ。コントロールしていたらそれ即ち「意識のコントロール下」なのである。私は自分では操縦不能な、再現性のない“何か”に7割も仕事を外注して、しかもその外注先が自分よりも有能というわけだ。さらに、この“何か”への外注費=自分の人件費だから、たいへんお得だ。しかし彼は、普段のデザインの仕事や、ビジビジしい漫画の仕事などは請けてくれない。わがままである。


私はヘヴィメタルバンド・Children Of Bodomの大ファンであり、すべての楽曲を手掛けていたリーダー・Alexi Laihoを「“圧倒的才能”のメチャクチャわかりやすい例」として捉え、崇拝している。

どれぐらい崇拝しているかというと、「絵において最も影響を受けた人は?」という質問に真面目に「Alexi Laiho(ギタリスト)」と回答しかねない(絵描き限定なら、杉森建か小畑健)。絵でも音楽でも写真でもダンスでも、「アート」「精神性」という括りで抽象的に見れば影響は受けるものだし、人生への影響が最大ならば仕事への影響も最大なのは自然である。

さて、上記動画を見ていただければ1刹那で理解できる通り(1刹那では1フレーズも聞けないので無理)、Alexiはヤバい曲ばっかり出力してしまうのだが、彼はヘヴィメタルやギターの雑誌で作曲技法や考え方について、ほとんど言語化していない。というか、仮に言語化しようと思ってもできないのだと思う。

良さは分かるが、なぜそうなったのか説明できない

これは言語化能力が低いからではなく、意識的にコントロールできないことだから「なぜそうなったのか」を説明できないのだ。

「Alexiの才能と比べるのはおこがましいが…」と非常に言いたいが、言わないことにする。きっと種類自体は同じだから。

描き上がった時、「これはすごくいいな」と感じる。この「いいな」とは、美しい絵を見た時に「きれいだ」と感じ、よいメロディを聴いた時に「すばらしい」と感じ、秋の複雑な雲模様を見て「かっけえー!」と感じ、真理を知った時に「これは真理である」と納得するのと同じ、コントロール不能で理由のない、強制的な現象である。

美しい絵や良いメロディを理論的に解剖したとしても「じゃあ、その理論で“美しい”と感じる、その感覚自体は何故ですか?」という根本的なところには、触れることができない。「どうしても美しいと感じるから」としか言えないのだ。

だいたい、理論に反した絵やメロディが美しいことなど日常茶飯事である。私は音楽理論を全然知らないが、それでもAlexiの曲が全然理論に沿っていない・しかし異次元的に美しいことは分かる。私の幼馴染が書くメロディも、一聴して「うーん、神の顕現」と感じるが、理論に沿ってやっていたらあんなメロディは出てこないと確信する。

理論に沿って説明しても最後には「根本的に何で?」に行き詰まるし、理論に沿っていなければ尚更、本人にさえ説明不能だ。何しろ本人は「意識的にやっていない」のだから、「なんとなく」超過のことは言えない(以上と超過、以下と未満を正確に使いたい気分)。

学習を通じて身につけた「実力」を超えている

単純な稼動時間・取り組んでいた時間だけで見れば、私は「グラフィックデザイン」をやっていた時間が最も長く、その次はおそらく「漫画っぽい絵」を描いていた時間が長い。しかし、自分が作った作品の中では「メタルな絵」の方が「イケている」と感じる。メタルの絵は取り組み時間としてはかなり短いのだが、単に「メタルっぽい絵が好きだから、よりよく感じる」だけでは説明できない、謎のクオリティというか、描かれていない何かを感じるのだ。

もちろん、漫画っぽい絵を描きまくる中で基礎デッサン力が身についたのは事実だし、グラフィックデザインのおかげで画面構成などが上達しているのだが、直接的な「メタルの絵の練習」は全くしていないのに、ぶっつけ本番で本業より上手くやれてしまうのは不思議な現象である。

一大テーマへの回答

本記事で述べた「自分以外の何かによる自動出力」を才能A、「こだわり=未成年の感覚」を才能Bとすると、これまで私が一大テーマとしてきた「芸術と安穏は両立できるのか」の答えはこうだ。

Aはできるが、Bはできない。AとBのどちらが「本当の才能」かは難しいところだが、再現性が無いのに安定しているという意味で、Aの方がより核心に迫っている気がする。Bはかなり年齢や経験、人間関係や金銭状態にまで左右される実感がある。

そんな調子でメタル絵の方がデザインより才能があっても、仕事の存在量が圧倒的に違うので、私のフルタイムジョブはデザインなのである。食うためには才能よりも需要の方が重要という、クッソつまらない事実が残念なのであった。